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[静岡県西伊豆町] 哆胡神社(合の浦)

社名哆胡神社(たごじんじゃ)
所在地
哆胡神社

静岡県賀茂郡西伊豆町田子203-1(旧:田子村合の浦)
社格村社
延喜式内(哆胡神社 – 比定)
御祭神積羽八重事代主命(つみはやへことしろぬしのおおかみ)
哆胡若宮命(たごわかみやのおおかみ)
八幡大神(やはたのおおかみ)
※ 南豆風土誌・新南豆風土誌
多胡若宮命
積羽八重事代主命
神紋
摂末社神明社(天照大神)
山神社(大山祇神)
天神社(菅原道真命)
天玉社(須佐之男命)
稲荷社
摂末社の扱いではないが、境内内にある神社
恵比寿社
情報源
訪問記訪問日: 2017/01/01
ここのところ、毎年の初詣はここにしている。旧136号線を進み、田子の隧道をくぐると、急峻な階段。
階段を登りきると明神鳥居と狛犬がお出迎え。
登りきったところに社殿。さすが元日だけあって、多くの人で賑わっている。拝殿と覆屋を兼ねた社殿の中には本殿。
ちょうどご祈祷を受けている方がおり、その後ろから参拝。
多くの人は気がつかないが、社殿の右脇奥に境内社。
こちらも参拝し、今年の初詣とする。北側階段の途中に少々大きめな広場があり、奥手前で段差がある構造。
古くを知らないが、昔の社地はこちらだったのかもしれない。
今は招魂社のみがひっそりと佇むのみである。
ただ、ここからの大田子海岸の眺めはなかなかである。

祭神であるが、社頭の由緒によると、積羽八重事代主命、哆胡若宮命、八幡大神の3柱となっている。
だが、手元にある南豆風土誌・新南豆風土誌には多胡若宮命、積羽八重事代主命の2柱が記載されている。
これはどういう意味があるんだろうか…。

御朱印
由緒書哆胡神社

鎮座地 西伊豆町田子1100番地の1
御祭神 積羽八重重事代主大神(つみはやへことしろぬしのおおかみ)
哆胡若宮大神(たごわかみやのおおかみ)・八幡大神(やはたのおおかみ)
例祭日 11月2日
由錯
えびすさま、はちまんさまといわれ、千年前からおまつりされていた、三島明神(事代主神)は、始めは元宮に、後に飯盛山の地に、八幡社は、大田子山崎の地に鎮座され、明治14年12月、合併されて、現在地合ノ浦に神殿を造営鎮座された。
他に、神明社(天照大神)山神社(大山祇神)天神社(菅原道真命)天玉社(須佐之男命)稲荷社等おまつりしてある。

※ 天玉社(須佐之男命)、いろいろ調べたが天玉社の正体は不明。天王社の誤記だとすると、牛頭天王社ということになるけれど。

[静岡県松崎町] 天神社(建久寺)

社名天神社(てんじんじゃ)
所在地
天神社

静岡県賀茂郡松崎町建久寺95
社格無格社
御祭神菅原道眞
神紋星梅鉢紋
摂末社
情報源天神社 – 静岡県神社庁
訪問記訪問日: 2016/12/31

曹源山建久寺の北東に隣接、建久寺集落の中心地にこじんまりとして鎮座している。

南豆風土誌の中川村建久寺字西ノ畑にある天神社が当社であると思われる。
祭神は菅原道眞、社格は無格社、創立は不詳ながら天文以降の棟札があるとのこと。ただし、その棟札はのちの火災で失われている。

境内には朱色の両部鳥居。そこを超えると覆殿。
脇には建久寺生活改善センター。公民館のような施設なのかな?

覆殿は扉はしまっていたが世情はされておらず、参拝時に自由に開けられるようになっている模様。
扉を開けて参拝。
中には本殿。資料によると文久元年(1861)九月二五日再興の棟札があるようで約150年の年代物である。

御朱印
由緒書

[静岡県伊豆の国市] 神武天皇遥拝所(大仁)

社名神武天皇遥拝所
所在地
神武天皇遥拝所

静岡県伊豆の国市大仁118
社格
御祭神
神紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2016/12/31

大仁ポケットパーク脇のこんもりとした山、水晶山。
その山腹に鳥居を発見し寄ってみることに。

登ってみると…。門がきっちり締められており、みたところ私有地に置かれているもののようである。邸内社。
ざんねんだ。と来た道の先をみると水晶山はこの道で登っても良いというような看板。
時間もあるし登るかねぇ。と、登ってみる。

山頂には「神武天皇遥拝所」の構造物。昭和初期の建築らしく傷みも激しい状況であるが、なんとか形を保っている。

標高60mほどの小さな山ではあるけれど、景色はかなりの絶景。

御朱印
由緒書

[静岡県伊豆の国市] 廣瀬神社(田京)

社名廣瀬神社(ひろせじんじゃ)
広瀬神社
所在地
廣瀬神社

静岡県伊豆の国市田京1-1
社格延喜式内(田方郡 廣瀬神社)
県社
御祭神溝樴姫命
外二神 

静岡縣神社志 による

三島溝樴姫命(みしまみぞくひひめのみこと)

神紋五七の桐紋
摂末社見目神社・龍爪神社など八社を合祀
祖霊社

 

静岡縣神社志 による

見目神社(六座 波布比賣命 久爾都比賣命 伊賀牟比咩命 伊波乃比賣命 佐伎多摩比咩命)
大楠神社(不詳)
小楠神社(不詳)
若宮神社(不詳)
厳島神社(不詳)
稲荷神社(不詳) 右五社一棟五扉

情報源廣瀬神社 – 静岡県神社庁
静岡縣神社志
訪問記訪問日: 2016/12/31

大晦日の早朝。
静けさの中での訪問。

社頭付近に駐車場があったので、そこにクルマを駐車し、参拝。

真新しい狛犬に明神鳥居
階段を降りると、さすが県社という風格の参道。
神橋を超え進むと神馬なんかあったり。

その奥に社殿。

社殿裏には境内社、そして土俵、神楽殿。

明日の正月に向けて準備が開始されているようで、境内には薪が大量に積まれており、それらを燃やすのであろう場所が設けられていた。静寂な朝ではあるが、なんとなくせわしない空気を感じる。

御朱印
由緒書大仁町指定文化財
広瀬神社の杜(森)延喜式内社であり、神階帳従一位広瀬の明神と
いう。祭神は、溝樴姫命外二神。見目神社・龍爪
神社など八社を合祀、祖霊社を祀っている。田方
一の大社である。
社伝によれば、三島大社はその昔下田の白浜か
らこの地に移り、後に三島に遷祀したという。
天正十八年(一五九一)豊臣秀吉による韮山城
(北条氏)攻めの際兵火に遭い社殿ことごとく焼
失している。慶長元年(一五九六)に再建、江戸
時代には深沢明神として崇敬された。明治二十八
年(一八九五)より広瀬と称える。
例大祭は、毎年十一月三日に行われ、大仁町指
定無形文化財の式三番が奉納される。
境内には、クスノキ・ムクノキ・ケヤキ・カヤ
ノキ・マキノキ・スギなど多くの樹木がある。ま
た、海浜性のヒメユズリハ・モクレイシ・トベラ
など注目すべきものがある。
大仁町教育委員会

[埼玉県川口市] 大徳稲荷神社(並木元町)

社名大徳稲荷神社(だいとくいなりじんじゃ)
所在地
大徳稲荷神社

埼玉県川口市並木元町
社格
御祭神
神紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2016/12/02

かつてサッポロビールの工場であった場所にある神社。
本来は工場の邸内社であったもののようです。

御朱印
由緒書

[埼玉県川口市] 横曾根神社

社名横曾根神社(よこそねじんじゃ)
所在地
横曾根神社

埼玉県川口市南町1丁目15−10
社格
御祭神素盞嗚尊(氷川大神)
応神天皇(八幡大神)
稲荷大神
神紋菊花心に三つ巴紋
摂末社
情報源横曾根神社 | 埼玉県の神社
訪問記訪問日: 2016/11/23

川口駅からだと徒歩でもアクセスできるけど、やっぱりバスかなぁ、と悩む距離に鎮座。
狭い社地の為か、鉄筋コンクリートの総二階建ての建物、正面の鳥居をくぐるとすぐに階段。そこを登ると拝殿。

階段を登って参拝。

社務所は一階。

一応、御朱印をもらったというブログ等も見た事があるので、同行者は御朱印をいただけるか確認に。
社務所にて確認すると御朱印はないとの事。御朱印ブームでもあるので、心ない来訪者とトラブルでもあったのかもしれないけれど、ちょっと対応に難ありだったそうだ。まぁ、神様の前なわけだし、どちらも気持ちよく参拝したいものです。

御朱印なし
由緒書横曾根神社 御由緒

□御縁起(歴史)
御祭神 氷川大神・八幡大神・稲荷大神を主神とし、
氏子区域に本居を構える氏子の人達の、祖先の神々をも合わせまつる。

横曽根神社じゃ度々の水害によって、古記録等忘失して御創建年代は定かではないが、「風土記稿」によれば応永年間(約六三〇年以前)の創建と伝えられ「村内の鎮守なり」とあり、本殿内に安置する木彫りの御神像五体は室町期のものといわれている。江戸時代種々の行事の際に使用された大般若経(六百巻)は延享元年(約二六〇年前)の銘があり、現在神前に安置されている。

当神社は、昭和八年 川口町・横曽根村・青木村・南平柳村の一町三村が合併して川口市となる以前における、旧横曽根村(現在の南町、宮町、原町、仲町一、二、三丁目仁志町一、二丁目・北町・緑町・並木町一、二、三、四、五丁目・飯塚一、二、三丁目)の総鎮守、産須那の社として、往古より数百年にわたり村人の氏子崇敬者の厚い崇敬を集めて参りました。無論、川口市となりましても、横曽根神社の氏子区域は変わる事なく、従来通りと、神社本庁にも認められており、飯塚地区を除いた、横曽根地区・西川口地区・西地区・並木地区の各連合町会の総鎮守として、地域の発展安全・子孫繁栄にその御神徳も顕著な産須那の神であります。

江戸時代、文化三年生まれの学者六人部是香はその著「産須那社古伝抄」に

「先づその地の産須那の神に、慇懃に奉仕して、其の余暇には、他所の霊験をも仰ぐべし。かりそめにも。我が産須那の神をさし置きて。他所の利益を仰ぎ奉らむは。我が主君を等閑にして他処に参るが如く。不当なる にあらずや。然れば狭少の処に御坐とも。其の恩徳を忽にすべからず。
若し当処の神。咎めて祟り給はば。いかに頼み奉るとも。他処の神更に助け給ふべからず。餘社の祟りは、吾が産須那の神の恵給はば。宥め給はむ。他処の社といへども。疎略に為べからずといへども。取別け先づ第一に。其地其の地の産須那の社を。大切に為ずんば有るべからず。」

と説かれております通り、氏子区域とそこに住む氏子の人達を第一に御守護下さる広く厚き御神徳に感謝し、尚往先の御加護を祈念して、神社の維持・神事の執行を子々孫々に伝えるべく、初詣・初宮参・七五三詣・厄除け・自動車清祓い、各種の安全祈願祭等神前の御祈祷・地鎮祭や各種の清祓い等の外祭も、産須那・氏神様で御受け致します。

□ 御祭神 ・素盞嗚尊 ・応神天皇
□ 御祭日
・ 元旦祭(一月一日) ・祈年祭(二月十七日) ・例大祭(十月二十日)

[埼玉県さいたま市緑区] 大牧氷川女体神社

社名大牧氷川女体神社(おおまきひかわにょたいじんじゃ)
所在地
大牧氷川女体神社

埼玉県さいたま市緑区東浦和5丁目20−2
社格
御祭神
神紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2016/11/21

たまたま車で付近を流していたところ、ナビの画面上に鳥居のマーク。
こんな処に?と急遽の訪問。

ちょっと小高くなった場所に鎮座。
埼玉県指定有形文化財(建造物)の表示はあるが、それ以上は、氷川女体神社で有ること以外の詳細は不明。女体神社ですので、奇稲田姫命を祭っているのであろうことは推測できるのですが。
あと、土地に形状から古墳跡地なのではないかとの推測も可能ではないかと。
古い神社はわりと古墳の上に立っているってのは多いことなので、特別に珍しいことではないけれど。
そんな感じを受けますね。

御朱印なし
由緒書埼玉県指定有形文化財(建造物)

大牧氷川女体神社本殿 一棟

大牧氷川女体神社は、見沼の谷を見下ろす舌状台地上にあり、市内宮本の氷川女体神社祭神の御子姫を祭ったという伝えもあります。
本殿は一間社流見世棚造で、桁行一・一八メートル、梁間〇・九五メートル、向拝の出〇・六七メートルです。地覆の上に建ち、身舎柱は円柱で、腰長押と内法長押で緊結し、造り出し舟肘木桁を架してあります。妻は虹梁・いのこ扠首です。向拝柱は面取り方柱で、肘木造り出しの頭貫を通し、柱上三斗組の斗栱を配しています。中備は蟇股です。軒は一軒繁垂木で、屋根は目板葺です。身舎柱間は正面が板唐戸で、他の三面は横羽目板です。なお、正面には木階が付きます。
寛永十三年(一六三六)と貞享元年(一六四八)の棟札が現存していますが、前者がこの本殿の建立を示すものです。ともに付指定となっています。
この本殿は覆屋の中に収められている小規模なものですが、この地域に顕著な分布を見せる見世棚造神社建築の典型的な例です。さらに、棟札により建立年代が明らかであることも加え、極めて貴重な建築と言えます。
なお、昭和六十三年度から平成元年度にかけて、建立当時の姿に復元されています。
平成十四年十月

埼玉県教育委員会
さいたま市教育委員会
大牧氷川女体神社

[埼玉県川越市] 薬師神社(幸町)

社名薬師神社(やくしじんじゃ)
時の鐘薬師神社
川越薬師如来

社殿
所在地
薬師神社

埼玉県川越市幸町15-8
社格無格社
御祭神大己貴命
少彦名命
神紋
摂末社稲荷社
情報源
訪問記訪問日: 2016/10/!5

川越の観光の中心、時の鐘。
川越のシンボルと言えるこの場所。
実は神社である。

しかも、かなり面白い経歴である。
もともとは「瑞光山 医王院 常蓮寺」というお寺で、『新編武蔵風土記稿』ものるお寺であった。
明治期の神仏分離により常蓮寺は廃寺になり、薬師堂は「薬師神社」となった。
祭神は大己貴命・少彦名命となっているが、薬師如来像が祀られており、その当時を偲ばせる。

こういうのを見るにつけ、明治政府の行った行為は日本の文化を破壊しまくったんだなと思う。
日本でも文化大革命を彷彿とさせる文化破壊があって、その片鱗がこういう所で見える。

御朱印
由緒書薬師神社の由来について

当神社は以前瑞光山医王院常蓮寺
という寺であったが明治維新の折
薬師神社となった。明治二十六年
川越大火により時の鐘と共に焼失
翌年再建された。御本尊は薬師如来
の立像で高さ六十糎行基菩薩の作
という。五穀豊穣・家運隆昌・特に
病気平癒の御利益があり眼病には
著しい効果がある。尚、向かって
右奥の稲荷社は出世 開運 合格に
著しいご利益がある。

[群馬県桐生市] 織姫神社(織姫町)

社名織姫神社(おりひめじんじゃ)
所在地
織姫神社

群馬県桐生市織姫町1番1号
社格(屋敷神)
御祭神天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)
白瀧姫命
神紋
摂末社稲荷社?
情報源織姫神社 – 桐生市織姫自治会
織姫神社を記念公園に、地元3区準備進める | ウェブ桐生タイムス
訪問記訪問日: 2016/10/07

桐生市市民文化会館の一角に鎮座。
下草などはかられ、きれいに整備されているが、神社としてはなにか物足りなさを感じる境内。

境内には一宇の境内社。特に社名もないが、神紋から稲荷社であろうと推測。

後に謂れを調べてみたところ、もともと本地にあった日本織物会社が自社の繁栄を祈願し、1895(明治28)年、日本織物会社が川内村(現川内町)の白瀧神社から勧請し、敷地内に建立した屋敷神を由来とする神社で、本地がのちに桐生市に譲渡されたのを境に、近隣の自治会が管理を受託する形で運営がなされていたとのこと。想像するに、政教分離の原則から、神社を市が管理する事ができず、自治会に投げたという事なのでしょう。その自治体も過疎の影響で維持ができず、数年前に抜魂式をしたとのこと。

この物足りなさはそのせいなのかもしれません。
抜魂式を行った現在、この建築物を神社と呼んでよいのかどうかというものはあるけれど、やはり、それまでの住民の願いを受け止めてきたこの建築物は、やはり未だに神社であるのだろうと思う。

祭られている白瀧姫命。この白瀧姫命には伝承が残されていて、「桓武天皇の時代、上野国山田郡の男が京都に宮仕えに出た。その際、白瀧姫に恋をした。天皇の前で見事な和歌を披露し、白瀧姫を連れて帰ることを認めてもらう。」と、いう事で桐生に連れてこられた姫らしい。その姫は、桐生に移り住んだのちに、絹織物の技術を地域に伝承したというもの。現在の桐生織は白瀧姫より受け継がれたものなのだと。
白瀧姫は、死後に桐生市川内町の白瀧神社に埋葬され機織神として祀られたという。

御朱印
由緒書