「稲荷神社」カテゴリーアーカイブ

[埼玉県ふじみ野市] 中央通り稲荷(上福岡)

社名中央通り稲荷
所在地
中央通り稲荷

埼玉県ふじみ野市上福岡2丁目2
社格
御祭神
神紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2017/11/26

上福岡駅からの散策中に発見。
道路に面してはいるものの、宗教法人の登録はない模様で、かつ規模的にも小さなものですので、個人持ちの屋敷神なのでしょう。

とはいえ、祠はきれいに手入れされており、提灯は灯り、信仰を感じさせます。

そんなわけで由緒等は不明。

御朱印
由緒書

[静岡県松崎町] 火産霊神社

社名火産霊神社(ほむすびじんじゃ)
所在地
火産霊神社

静岡県賀茂郡松崎町吉田16
社格静岡県神社庁神社等級 一五等級神社(昭和三十五年十月一日)
御祭神天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)
手置帆負命(たおきほおいのみこと)
天彦狭知命(あめのひこさしりのみこと)
神紋
摂末社津島神社
稲荷神社
情報源
訪問記訪問日: 2016/11/23

Google Maps上では、「三宝大荒神神社」となっている神社。

松崎から峠に向かい、エネオスの手前の路地を左に入る。
軽自動車であれば余裕だけど、小型車以外は立ち入らない方が良いレベルの道。
直進し、行き止まりを左へ。細く心配になるけど道なりに進むと「吉田公民館」が左手に見える。
そこを右に折れて進む。行き止まりの場所が該当。

苔むした階段を登ると鳥居、さらに階段を登り覆殿へ。

扉は鍵がかかっておらず、参拝時には扉を開けて良いようなので、開けて参拝。
覆殿には鈴ではなく、鰐口が吊るされています。
地域では荒神と称されることもある様だし、Google Maps上では三宝大荒神神社となっている様でもあるので、扱いとしては三宝荒神の様にされているのかもしれない。役小角が伊豆に縁があるというのも関連するのかもしれないけれど。
いずれ、そうだとすると、一礼、三拍手、一礼で参拝すべきだったのかもしれない。

また、【資料】松崎町史資料編 第一集 神社・寺院編には、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)・手置帆負命(たおきほおいのみこと)・天彦挟知命(あめのひこさしりのみこと)の3柱が祭神であるとされているけれど。神社名である火産霊は、ご存知の通り、神産みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれた火の神、軻遇突智(かぐつち)の事。

正式な神社名や周囲での呼び名から考えても、火の神を祀る神社である事は間違いないだろう。ただ、資料にある祭神と一致しないところが気になる感じではある。
過去の資料をもうちょっと追いかけると何かわかるのかもしれない。

覆屋内の境内社には小さな本殿。中には津島神社と仲良く並んで牛頭天王の大麻収められておりました。これが資料にある津島神社なのでしょう。
島津信仰は牛頭天王なので、そういう組み合わせなのでしょうね。

御朱印なし
由緒書【資料】松崎町史資料編 第一集 神社・寺院編
火産霊神社祭神
天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)
手置帆負命(たおきほおいのみこと)
天彦挟知命(あめのひこさしりのみこと)

由緒
創立期は不詳、吉田集落の北側の小高い地に、南面する社で荒神と称されることもある。それは社名の火産霊神社が日本書紀に見られ、火をつかさどる神で、保温、炊事、照明、冶金その他諸般の恩恵を与え、また一方その怒りにふれると、たちまち非常の災害に見舞れると信じられたことに由来するものと思われる。
豆州志稿によると「寛永五年(一六二八)ノ上梁文アリ又三尺許リ(約九〇センチメートル)ノ板二枚ニ梵字七字ツツ、刻シタルヲ蔵ス古物也」とあるが今は見当たらない。
天保年間(一八三〇〜四四)火災により消失。嘉永六年(一八五三)再建の棟札がある。
一般に火の神は女性だとされており、本社は御産の神様としても信仰されている。妊婦は社にあげてある麻を少量いただいてかえり、枕元に置いて安産の御守りとする。無事出産後、この麻は胎盤と共に埋める。お礼として新しい麻を神社に奉納する風習がある。
殿内に明治三〇年(一八九七)六月の俳句の額がある。

例祭日
二月一一日

例祭日の行事
弓引き、戦時中も欠かしたことのない神事である。
弓は新竹の丸竹で二張り、弓弦は、かつては安産祈願の御礼に奉納された白麻をよりあわせたものを用いた。矢も新竹の小竹で大小各四本、的は大が一尺五寸(約四五センチメートル)小は約一尺(三〇センチメートル)距離は五間(約九メートル)七間(一二・七メートル)弓太郎(弓引き役)は十五歳の少年二名で、各一〇射し命中率が高い程、五穀豊穣と無病息災の厄除けが達成されるとされている。昔は弓太郎をつとめると、以降村人足など一人前の扱いを受けた。従って昔の元服の名残りと思われている。

殿字
拝殿 なし
覆殿 造立不詳
本殿 嘉永六年(一八五三)九月再建
社務所 かつてあったという跡がある

境内社
津島神社
稲荷神社
石宮(祭神不詳)
庚申塔二基

棟札
一 嘉永六年(一八五三)九月 上棟
二 嘉永六年(一八五三)九月 再建遷宮
三 文久二年(一八六二)九月 鳥居再建
四 明治三十一年(一八九八)二月 奉修三神

[静岡県沼津市] 城岡神社

社名城岡神社(しろおかじんじゃ)
所在地
城岡神社

静岡県沼津市大手町3-5-17
社格
御祭神
神紋
抱き稲に二重亀甲に丸に三つ葵紋
抱き稲に二重亀甲に丸に三つ葵紋

抱き稲に二重亀甲に丸に三つ葵紋?

※ ともかく、なんでもありの神紋。
※ 抱き稲=稲荷 二重亀甲=大国主 丸に三つ葵=徳川家康 を意味するのでしょう。
※ 御朱印をもらう際に、そういうことですかね?と伺ったら、「欲張りでしょ?」とお答えいただいたので、そういうことなんだと思われる。

摂末社
情報源城岡神社 – 静岡県神社庁
訪問記訪問日: 2017/08/19

恒例の伊豆参拝旅行の行きがてら、渋滞避けで久しぶりの沼津。

市街地の良立地。
間口は広いが、奥行きはあまりない感じの社地で、鬱蒼とした社叢がという神社が多い中、ここは真逆。
近代的な感じがする神社です。
ひとまず、鳥居をくぐると数十歩の参道、まずは参拝。

その後、御朱印をもらおうと社務所を探す。
社殿の右後ろには公民館風の鉄筋の建造物。どうも、そこが社務所の様です。
雑居ビルとして建築し、店子をとって収入としているのでしょう。
入り口を入ると、医院の看板などが上がっていたので、そうなんだろうと推測。

入り口ホール入って、すぐの受付の様な場所が社務所。
そこで御朱印をいただく。

市街地ゆえに駐車場はなし。ただ、地下や付近には有料駐車場も多いので、それらを利用するもが良さそう。

御朱印あり – 社務所にて300円
由緒書城岡神社

御祭神 宇迦之御魂神(お稲荷さん)
相 殿 東照大権現(徳川家康公)
大国主之命(出雲さん)

御由緒

往古 沼津城の丑寅(東北)老松鬱蒼として森厳を極めたる
一丘に小祠あり(縁起不詳)
沼津城第二代の城主水野忠成公文政七年(一八二四)五月
二十五日社殿を造営し時の第十一代将軍徳川家斉公より
山城国伏見稲荷の御神体を拝受し城の守護神として
奉斎した(稲荷神社と称す)
以降毎年一回大祭を斎行し庶民の参拝を許した
明治維新の際廃藩せられ場内区民の守護神として祀ら
れることとなる
明治七年東照宮(東照大権現)を相殿に迎え権現様の
愛称を以って崇敬を蒐む
爾来当社は稲荷様とも権現様とも称えられていたが
明治三十六年六月城岡神社と改称し社号を統一した
明治三十九年出雲大社の御分霊(大国主之命)を奉斎した
平成三年十一月大手町町制創立百周年の記念事業により
社殿を新築し境内整備を行った

[東京都足立区] 宮城氷川神社

社名宮城氷川神社(みやぎひかわじんじゃ)
所在地
宮城氷川神社

東京都足立区宮城1-38
社格
御祭神素戔嗚尊
伊弉諾尊、伊邪那美尊(三峰神社)
木花咲邪媛命(浅間神社)
宇迦御魂命(稲荷神社)
神紋左三つ巴紋
摂末社稲荷神社
水神宮
浅間神社
三峰神社
情報源
訪問記訪問日: 2017/08/18

東京なのに宮城?
地名の由来を調べてみると、戦国時代に豪族の宮城氏が地名の由来で、
しかも、この氷川神社自体は豊島氏の一族で太田資正に仕えた宮城政業の居館跡であある様です。
東京の地名は、収めた一族名がつくことが多い様ですね。

由緒書きを見ると、荒川放水路周辺らしく、放水路工事の際に移転しているとのこと。

公園の隣、明神鳥居をくぐると氷川神社の境内。
正面に社殿、左側に「稲荷神社」と「水神宮」、右側に「宮城富士」とある富士塚があり、そのいただきの上には「浅間神社」と「三峰神社」が鎮座しています。
荒川周辺でよく見る富士塚は登ることを前提とした富士塚(今となっては、怪我をして訴訟を起こされてもとか、壊されてもとかの理由から、登山禁止の場所も多いですが。)が多い中、ここは富士の石で積み上げたあまり登ることを前提としないタイプに見受けられます。

社殿左の水神宮、いろいろ資料を調べているけど、どうも資料が出てこない。
鳥居の後ろの社、その後ろにも水神宮、こちらは石祠を最近に新しくしたのでしょう。

氷川神社の賽銭箱には左三つ巴紋。

御朱印なし? – 江北氷川神社の兼務社
由緒書創建は不詳なれど、古くは豪族の館跡に創建されたと伝う。しかしながら、 大正2年の荒川放水路建設工事にともない社殿を移築しなければならなくなり、現在の地に遷座しました。
境内には足立姫をお奉りしたと伝えられる富士浅間神社・稲荷神社・三峰神社があります。
由緒宮城氷川神社由緒

祭神 素盞嗚尊  例祭 毎年九月十五日

当社の由緒は旧記を欠きその詳細は明らかではない。しかし按ずるに南北朝時代(一三一八ー九二)の昔武蔵国豊島郡一円を領していた豊島重信の子重中が新たに足立郡宮城の地を開発し、宮城八郎と称して居館をこの地に構えたとき守護神として足立郡大宮郷(現埼玉県大宮市)に鎮座する式内社(延喜式神名帳記載)武蔵一ノ宮氷川神社の分霊を勧請して祀ったのが始めである。そのころ宮城の地名はすでに足立姫による姫の父足立庄司宮城宰相の名に基づき、地名として存在していたものと考えられるが伝説による人物は、人皇四十八代聖武天皇の神亀天平時代(七二四ー四八)の人なれば、その実在必らずしも信ずべきにあらず。重中の後四代の子宮城泰業のころ泰業は相州小田原(現神奈川県小田原市)の北條氏に属し、武蔵国岩槻城(現埼玉県岩槻市)にあったが天正十八年(一五九〇)七月北條氏政が豊臣秀吉によって滅ぼされたとき宮城氏も亦北條氏と共に滅びた。しかし守護神は宮城氏没落後も猶この地に鎮座し、江戸時代宮城の地が近世村落として成立したとき、改めて鎮守社として之を祀り、十一面観世音菩薩を本尊とした。蓋し神仏習合によるものである。
その後、大正二年三月、荒川河川改修工事が行わるるや、工事遂行のため社殿移転の議が起り、その結果現在の宮城一丁目三十八番六号の地に遷座することになった。しかしその社殿も昭和二十年四月十三日の戦災により焼失したので、昭和二十年十月旧地に再建した。しかるにその後該地に宮城公園が設置されることになったので、境内の一部と公園敷地一部を交換して昭和三十年十月現在の地に新築移転することになり、今日に及んでいるのである。
因みに境内には伊弉諾尊伊邪那美尊を祭神とする三峰神社
木花咲邪媛命を祭神とする浅間神社
宇迦御魂命を祭神とする稲荷神社

が摂社として祭祀されている。

昭和六十二年正月朔日

[東京都文京区] 駒込天祖神社

社名駒込天祖神社(こまごめてんそじんじゃ)
駒込神明宮
所在地
朝日氷川神社

東京都文京区本駒込3-40-1
社格村社
駒込村総鎮守
御祭神天照大御神(あまてらすおおみかみ)

宇迦御魂命 (うかのみたまのみこと) – 鎮火稲荷神社
淤母陀流神(おもだるのかみ) – 榊神社
阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ) – 榊神社
須佐之男命(すさのおのみこと) – 須賀神社
天手力男命(あめのたぢからおのみこと) – 戸隠熱田神社
倭健命(やまとたけるのみこと) – 戸隠熱田神社

神紋花菱紋
摂末社鎮火稲荷神社(ちんかいなりじんじゃ)
三社合祭社(さんしゃごうさいしゃ) – 榊神社(さかきじんじゃ) : 須賀神社(すがじんじゃ) : 戸隠熱田神社(とがくしあつたじんじゃ)
情報源文京区 天祖神社(てんそじんじゃ)
訪問記訪問日: 2017/08/19

駒込駅より徒歩範囲。都道455線より入った場所に鎮座。
ここ、目指してくる様な状況でなければ、存在自体も気がつかなかったかも…。

ちなみに駐車スペースはなく、また路上駐車ができる様な道路上の余裕もありません。
近隣に幾らかのコインパーキングがあるので、車の場合はコインパーキングを利用するのが便利かもしれません。

住宅街の一角、細い路地の入り組んだ地域だけに、ちょっと狭苦しい感じがするけれど、境内に入ってしまうと、いかにも神域という空気が感じられます。

社頭から…まず、社号標を右手に見ながら、神明鳥居をくぐると境内。
境内は木々が茂り、いい雰囲気です。
参道を進むと三社合祭社、稲荷神社。そして、狛犬。
狛犬はなかなかに迫力がある子達。

拝殿横には社務所があり、そこで御朱印がいただけます。
駒込富士神社の御朱印もこちらでいただくことができるので、天祖神社にお参りする前に駒込富士登山をしてからというのもいいでしょう。駒込富士神社までは徒歩でも10分ほど。

御朱印あり(300円) – 社務所にて:書き置きの場合あり
由緒書天祖神社

江戸時代、駒込の氏神として、神明さまと呼ばれ、里人に親しまれてきた。社伝によると、文治5年(1189)源頼朝が奥羽征伐(藤原泰衡追討)の途中、この地に立ち寄り、夢のお告げで、松の枝に大麻(伊勢神宮のおふだ)がかかっているのを見つけた。頼朝は、討伐のよい前触れと喜び、この地に神明(天照大神)を祭ったのが、この神社の起源と言われる。社殿の様式は、神明造り。
大麻のかかっていた大木は、神木として崇められ、さしわたし4尺(12m)もある大木と伝えられている。(『江戸砂子』から)
その後、宮守もなく神木の根元に小さな祠を残すだけとなったが、1650年頃、堀丹後守利直によって再興された。神木は、その後枯れたという。
社殿の裏に、都立駒込病院あたりにあった「鷹匠組」の寄進名が刻まれた石柱が、いまも残る。

ー郷土愛をはぐくむ 文化財ー
東京都文京区教育委員会 昭和63年3月

[埼玉県三芳町] 羽生山稲荷神社

社名羽生山稲荷神社(はぶやまいなりじんじゃ)
所在地
羽生山稲荷神社

埼玉県入間郡三芳町北永井997
社格
御祭神
神紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2017/08/12
御朱印
由緒書羽生山稲荷神社

三芳町北永井と大井町亀久保との境界付近、武蔵野の面影を残す平地林(雑木林)が残る県立大井高等学校あたり一帯は羽生山と呼ばれ、その一角に羽生山稲荷神社が祀られている。
稲荷は一般に農耕神として祀られる場合が多いが、この羽生山稲荷は商業神・福神としての性格が強く、商売繁盛・失せ物探しにご利益があるといわれている。参道には朱の鳥居が立ち並び、いくつもの朱旗が奉納されていることから、現在も多くの人々の信仰を集めていることがわかる。
羽生山稲荷が祀られた起源は詳らかではないが、昔、この羽生山にヤマ掃きに来た人がはらみの狐(お腹に子を宿したキツネ)を殺してしまい、祟りがあったので稲荷として祀ったと伝えられ。
以前は小さな石祠だけがヤマ(平地林)の中にひっそりと建っていたという。
また、今では狐の姿を見ることはないが、かつてこの付近に狐が多く生息していたといい、石祠を祀った後に祠の下に狐が巣を作ったこともあったという。後にこの稲荷が信仰を集めるようになり、宮を立てなおす時にも狐が巣を作れる様にと脇に石を積み上げて狐を大事にしたという。現在でもその石積みは狐の巣として注連縄が張られ、榊が添えられていて信仰の対象となっている。
羽生山稲荷の祭礼は、かつては三月になって初めての午の日を祭日としていたが、昭和四十八年頃から三月十日に行れるようになり、この日は神事の他に参詣者に甘酒が振る舞われ、地元北永井地区のはやし達により重松流はやしの奉納も行われる。

平成五年三月

埼玉県
三芳町

[東京都千代田区] 太田姫稲荷神社

社名太田姫稲荷神社(おおたひめいなりじんじゃ)
一口稲荷神社(いもあらいいなりじんじゃ)
所在地
太田姫稲荷神社

東京都千代田区神田駿河台1丁目2−3
社格村社
御祭神宇迦之御魂神
菅原道真公
徳川家康公
金山彦命
神紋丸に細桔梗紋 – 太田道灌の家紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2017/06/07
御朱印
由緒書太田姫稲荷神社縁起古社名  一口(いもあらい)稲荷神社
御祭神  宇迦之御魂神
菅原道真公
徳川家康公
金山彦命
鎮座地  千代田区神田駿河台一丁目二番地
氏子区域 千代田区神田駿河台一、二、三、丁目
千代田区神田錦町一丁目、小川町二丁目太田姫稲荷神社は 極めて豊かな霊験伝承と
古い由緒をもつ神社であります
「駿河台文化史」(昭和十年神田史跡研究会)によると当神社の縁起は九世紀に始まります
詩才を白楽天に比されるほどの詩人参議小野篁(おののたかむら)が承和六年はじめ
伯耆国(ほうきのくに=鳥取県)名和港を出港してまもなく海が大そう荒れ狂い身の
危険を感じたため 篁は正装をして船の舳に座り熱心に普門品(ふもんぼん=観音経)を
唱えていると 白髪の老翁が波上に現れて「荒波から命を守つやるが疱瘡(天然痘=
大流行し治療法がなく非常に恐れられていた)を患えば一命が危ない われは
太田姫の命である わが像を常にまつれば この病にかかる事はないであろう」と告げ
波間に姿を消した そのお告げを護り自ら翁の像を刻み 護持していた のちに山城国
(京都府)の南にある一口の里に神社を祝い祭った
江戸の開祖として知られる太田資長朝臣(後の道灌)の最愛の姫君が思い疱瘡にかかり
絶望の中 人伝に一口稲荷神社の故事を聞き急使をつかわせ祈願 使者は祈祷の一枝と
幣を授かり帰ると 十直の病が癒えた資長朝臣は崇敬の念篤く城内本丸に一社建立し
姫君と共に深く敬拝した ある時この城の鬼門を守るべしとの神託があり 鬼門に移して
太田姫稲荷大明神と奉唱するようになった 長禄元年(一四五七年)のことである
慶長八年(一六〇三)八月 徳川家康公が江戸城へ入られた後 慶長十一年の江戸城
大改築の際 城内より西丸の鬼門にあたる神田駿河台東側に移されこの坂を一口坂(いも
あらいざか 後に鈴木淡路守の屋敷が出来たので淡路坂ともいう)と呼ばれた その後
代々将軍が崇拝し 修理造営は徳川家が行ったと伝えられている
明治五年(一八七二)神社制度により神職司掌とする
例祭日は毎年四月十八日と定められ 後に五月第二土曜日となる
大正十二年(一九二三)関東大震災で類焼 御神体のみ無事に湯島天神に避難する
大正十四年(一九二五)仮社殿が落成
昭和三年(一九二八)氏子各位の寄進により 本社殿 神楽殿 御水舎 神輿庫 社務所
鳥居等新築される
昭和六年(一九三一)御茶ノ水駅 両国駅間の総武線建設のため社地大半を収用され
鉄道省より換地として 現在の地を神社敷地に指定 一切の建築物をそのまま移転
して今日に至る

[静岡県松崎町] 稲荷神社(船田)

社名稲荷神社
所在地
稲荷神社

静岡県賀茂郡松崎町船田
社格
御祭神
神紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2017/05/02

たまたま、若宮八幡神社宮に訪問した帰り道に発見。
松崎の松崎町史資料編 第一集 神社・寺院編にも載っていない神社だけれど、どう見ても邸内社という感じでもなく。
ひとまず、参拝。

傷みが激しいけれど、しっかりと大地に立つ、石造りの靖国鳥居。
その先には眷属たる狐が4匹。
こちらも傷みが激しく、少し見ていてかわいそうな感じ。

社殿には特に社名等が書かれていないけれど、水田地帯の社であり、眷属が狐であることから稲荷神社なのでしょう。

資料が無いのでそれ以上は不明…。

御朱印
由緒書