「無格社」カテゴリーアーカイブ

[静岡県西伊豆町] 浦守神社

社名浦守神社(うらもりじんじゃ)
國玉命神社(くにたまみことじんじゃ)
所在地
浦守神社

静岡県賀茂郡西伊豆町安良里929
社格無格社
延喜式内 (國玉命神社)
静岡県神社庁神社等級 十二等級神社(昭和五十六年七月一日)
御祭神國玉命(くにたまのかみ)
神紋
摂末社稲荷社
情報源浦守神社 – 静岡県神社庁
訪問記訪問日: 2016/11/24

ここの神社、場所のわかるし、どこにあるのかもよく見える。
でも、行けない。

地元の人は船で参拝するのでしょう。
直接にたどり着ける、簡単な道がないのです。

船を持ってない人間は、例大祭などの船の便が出るときに参拝するか、努力と根性で訪問するかのどちらか。
今回はちょっと根性を出してみた。

12:30 安良里港を回り込み、造船所を手前を左折、坂を登りきった場所に今回の参拝の起点があります。ここからハイキングスタート。網屋崎までは1.38km。

途中に数カ所の案内がありますが、基本的には一本道。
登山靴は必要ないけれど、がっちりと紐を締めたスニーカーは絶対に必要な感じのライトな散策道。
日頃運動不足の自分。汗が滴ってきます。

12:45 登り始めて1.03kmほど。田子(今山)と網屋崎への分岐路が出てきます。ここを右折して網屋崎へ向かいます。

12:50 分岐からすぐ、東屋が現れます。そこには恐ろしい文字が。
「ここから網屋崎へは急な下り坂が続く健脚向きの歩道となります。行かれる方は無理のない計画をたててからご利用ください。」

ここまでの道も、登山と考えれば楽すぎるレベルですが、遊歩道と考えるとちょっとキツめ。
そこにあって、健脚向きとは…どんなレベルなんだろうか。

登りの急な坂道はゆっくり登ればいいだけ。下の急坂は膝に負担をかけるし、登り以上に体力を消耗する。結構な急坂。ライトトレッキングブーツを履いてきて正解。これ、スニーカーだったら、膝が根をあげていたかも。

13:05 下りきり、ようやく浜辺へ。

一気に歩って35分。帰りはこの登りを考えると45分コース。
海を船で渡れば5分とかからないだろう。
訪問する場合は往復で2時間、ちゃんとした靴に長袖・長ズボン、それに手袋をお忘れなく。

苦労して網屋崎。
ここから海岸を歩き、突堤を目指します。

突堤には鳥居。
船で参拝に来るのがよくわかる構造。船で突堤につき、そのまま鳥居をくぐれるようになっています。
陸からくると、鳥居を順方向にくぐることができません。

鳥居をくぐると左に社務所の様な建物。例大祭時にはお札の配布をしているとのことなので、こちらで行うのでしょう。

その奥に社殿。
社殿は鍵がかかっておらず、開けると、拝殿の奥、覆屋の中、本殿の前に賽銭箱。
これは、参拝時には開けて中に入って参拝して良いものと思われます。

本殿前まで行き参拝。

脇には稲荷社の本殿。
摂末社としては、社殿脇に石祠があったけど…詳細不明。

御朱印
由緒書

[静岡県西伊豆町] 天満天神宮(栗原)

社名天満天神宮
所在地
天満天神宮

静岡県賀茂郡西伊豆町中827
社格無格社
静岡県神社庁神社等級 十四等級神社(昭和五十六年七月一日)
御祭神菅原大臣命
神紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2016/11/23

仁科中学校の運動場の後ろ、隠れるように…かすかに鳥居が見える。神社だ。仁科中学校運動場の東端、栗原集落の入口を左へ入り、長光寺の方向にグランドに沿って約一〇〇メートルほどでアプローチできる。
資料によると、昔は参道があり、まっすぐに神社の鳥居に向かっていけたらしい。いつの段階かで運動場ができて分断されてしまったということのようです。ひとまず、迂回しつつアプローチ。
運動場側に廻り込み、まずは鳥居をくぐる。
鳥居の先に拝殿。
拝殿は伊豆このあたりでよく見かけるタイプ。普通の民家の玄関を開けるとその奥に本殿みたいな。
拝殿から覆殿までの階段、石段の両脇にのちに手すりをつけた模様。もともとは脇から回り込んで本殿にというスタイルのだったのかもしれません。
手すりがついたからといって、入れなくなったわけではなく。
脇の道を使えばもちろんアプローチ可。
ということで、本殿にご挨拶…覆屋には鍵。隙間から覗くと、伊豆らしく等級の表示。

小さいながらに整備された境内、地域の信仰が残っているのでしょう。

御朱印
由緒書

[静岡県西伊豆町] 神明神社(浮島)

社名神明神社
所在地
神明神社

静岡県賀茂郡西伊豆町仁科三〇三五番地の一(浮島)
旧表記:仁科村濱字富洞(南豆風土誌新南豆風土誌
社格延喜式内(布刀主若玉命神社:比定)
無格社
御祭神布刀主若玉命(南豆風土誌新南豆風土誌西伊豆町誌 資料第一集 神社・寺院並びに棟札編による)
布刀若玉比売命(村社加列願 による)
布刀主若玉姫命
神紋
摂末社
情報源南豆風土誌
新南豆風土誌
西伊豆町誌 資料第一集 神社・寺院並びに棟札編
訪問記訪問日: 2017/05/05

以前より、「浮島(ふとう)には神社がある。」という情報は得ていて、一度、詣でてみたいと思って早6年。
何度も浮島海岸には行っているが、一度も社の様なものは見かけたことがなく、正直、いったいどこにあるのだろうという状況であった。
玄松子の記憶さんのところに神明神社とあり訪問ん記録が記載されている。
その後、むく犬のブログさんの【無狛犬】西伊豆町浮島 浮島神社のエントリーなども発見。
やはり、この小さな浮島エリアのどこかに潜んでいるんだろうなぁ。

ムズムズと考えながら情報を検索するも、これ以上の情報もなし。
結論。やはり足で稼ぐしかなかろう。

「しおさいの湯」に行った際に、番頭をしていた初老の男性に神社の事を聞くことからスタート。
地元の人ならと期待を込めたが、「神社なんて聞いたことがないな。俺は田子の人間だから良く知らない。」と…田子、山を挟んで隣のエリア。
やはりそのくらいの距離の人ですら知らないのであれば、どうにもならんなぁ。と思いつつ、もうやけになって路地を歩きだす。

結局、場所は分かった。
「しおさいの湯」を背に真ん前の山裾である。

大屋荘の脇の路地を入り、大屋荘の真裏にある道を浜に下る。
道と言っても自転車が精一杯の「路地」。
ゼンリンの住宅地図でも見れば乗っているんだろうけれど、普段使っているネット上の地図には道の存在すら記載されないレベル。
下りながら山を覗くと、これまた細い路地の先に鳥居が見える。
ようやく発見である。

ちょろちょろと水の流れる小川を超え、境内へ。
石積の上に社殿。
社殿は大きくはないがきれいに整えられており、信仰が続いているのがわかる。

延喜式内の布刀主若玉命神社に比定される古社。
観光資源にでもなりそうな気もするんだが、そこは、観光のメインストリートではなく、生活のメインストリートを通り、さらに地域住民に近い路地の奥。やはり地域としてはそっとしておいてほしい領域なのかもしれません。

御朱印
由緒書西伊豆町誌 資料第一集 神社・寺院並びに棟札編

神明神社(延喜式内・無格社)

西伊豆町仁科三〇三五番地の一(浮島)

祭神 布刀主若玉命

環境

旧国道「浮島」のバス停から小さな谷川に沿って四〇
〇メートル余り下り、民宿の角を右に折れると間もなく
小さな鳥居が見える。
ここが旧式内社「神明神社」である。社の前には、先
程の谷川が流れている。幅二メートル程の川には以前船
板がかけてあったが、現在はコンクリート造りの小さな
太鼓橋に替っていた。不思議なことに、ここの川底だけ
が岩盤で、一か所深く抉られたところがある。前にはこ
の淵で、よくウナギが捕れたという。
橋を渡った左側の袂に、直径二〇センチメートルくら
いのウバメガシがある。幹の片面に長く大きな傷跡が残
っている。これは明治の火事の名残である。
『増訂豆州志稿』に「祠域狭隘極テ衰頽ニ属ス」とあ
るように、今も小さな社であるが、かつては式内社であっ
た。この辺りを昔から御庵と呼び、五輪さんの伝説やま
た瓶棺の出土などを考え合わせると、改めてこの土地の
歴史のロマンを感じさせる。縁起
創立年月は不詳である。『延喜式神名帳』に「布刀主若
玉姫神社」とある式内社である。また『伊豆国神階帳』に
「従四位上二浦谷玉姫ノ明神」とあるが当社に当てられる。
ただし『増訂豆州志稿』や『大日本史神祇志」に「谷
は若の誤字」であるとされる。
祭神の「布刀主若玉命」は、神話の「天岩屋物語(後
記)』に出てくる姫神である。
また鎮座地の浮島の地名は祭神の布刀、二浦から富戸、
富洞から現在の浮島となったものである。また、この付
近の小字が御庵となっていることなどを考えると、この
神社との古いつながりを感じさせる。
神社の神明は姫神を神明と尊称することが多いという
ことから土地の人は昔から「神明さん」と呼び親しんで
きたものである。明治十六年五月の村社加列願いには
式社「富洞神社」とあるが、これは格式を高めるためと
思われる。同十九年の古社寺調には、無格社「神明社」
となっている。
なお昭和二十八年の『神社明細帳』には「神明神社」
として登録された。
明治十九年の調書に「此処ハ人家只六七軒ニシテ祠モ
甚小ナレトモ相伝ヘテ式社ト云極メテ古祠ナル由」とあ
るように古くから、式内社と伝えられ尊崇されていた社
である。また棟札写しとして「奉再建神明宮慶長十三年
(一六〇八)正月再建願主氏子中」とあるが、この棟札
は現存しない。
明治二十八年五月古社寺調に「今ハ社域狭隘ニシテ唯
小祠ヲ存スル耳ミ、再三海嘯ノ為、流レテ旧記ヲ失フト
云フ」とあるように記録はほとんど残されていない。
当社の社格は無格社とあるがこれは、明治四年以降の
神社規則による国が所管する官幣、国幣の大中小の官社
と府県社・郷社・村社・無格社の社格をいう。無格社を
社格なしと考えるのは間違いで無格社も「無格社」とい
う社格である。ただしこれは昭和二十一年廃止された。

由緒書村社加列願

伊豆国那賀郡浜村字浮島

式内 富洞神社

一、祭神 布刀若玉比売命
一、由緒 延喜式神名帳ニ載スル処ノ官社ニシテ其証ハ
去ル明治五年旧韮山県ニ於テ編相成候伊豆国
式社考証又同八年旧足柄県ニ於テ編進相成候
伊豆国式社未定神社考証書又其後旧教部省ニ
於テ編纂相成候纂定神名■等ニ判然記載有之

一、社殿間数 間口壱間半 奥行壱間
一、境内反別 三畝十歩
一、氏子戸数 三百四十三戸
右者由緒ノ通リ式内ニシテ村民信仰ニ因リ従来修
理維持罷在候処社格未定ニ付今般更ニ村社加列願
上弥増尊信仕度人民協議ノ上鹿絵図相添情願仕候
間御聞届被下候様奉願上候也
那賀郡浜村佐波神社祠官 間野斎宮
同村氏子惣代      山本良吉
同           加藤兼吉
明治十六年五月

[静岡県南伊豆町] 石室神社(石廊崎)

社名石室神社(いろうじんじゃ、いしむろじんじゃ)
所在地
石室神社

静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎125
社格延喜式内社
伊豆国神階帳「従四位下いわらいの明神」
無格社
御祭神伊波例命(いわれのみこと)
神紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2017/05/02
御朱印あり(300円) / 御朱印帳あり
由緒書

[静岡県沼津市] 神明神社(舟山)

社名神明神社
所在地
神明神社

静岡県沼津市戸田2556
社格無格社
御祭神天照皇大神
神紋
摂末社舟山天満宮
情報源
訪問記訪問日: 2017/04/30

海岸沿いの国道を南下中、途中の碧の丘(展望エリア)で休憩。
海が綺麗だなと見ていたら、ちょい先の集落に鳥居があるのが見えた。
ナビをみると、神社らしい。

そこでちょっと寄り道。舟山の集落方面に進む。

ゆめとびら舟山という青少年屋外研修施設の向かいに鳥居。
社地は木々に程よく光を遮られる形になっており、しっとりと湿った空気が流れている。
なんとなく、この空気感が神聖な場所に来た感じを誘ってくれる。

境内は綺麗に整備されており、社殿も手が入っているようである。
信仰が生きているのが感じられる。

境内社と思われる天満宮には誌文があったが、神明神社には特に由緒書などは無く、詳細は不明。

御朱印
由緒書
由緒書舟山天満宮誌文

天を敬い地に親しみ人々相和し文化を築く、是人の正道なり。
我等此処に社屋新たにし先祖伝来の天神を祀り、学業の進展を祈願す。
小学学習を旨とし、その実を挙げ文化の里たらんことを期す。

平成十三年十二月吉日 舟山区民一同

[静岡県伊豆市] 國玉神社(小土肥)

社名國玉神社(くにたまじんじゃ)
所在地
國玉神社

静岡県伊豆市小土肥669
社格延喜式内(國玉命神社)
無格社
御祭神大國主命
または
國玉命
神紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2017/01/04

八幡神社に訪問したのち、小土肥大川沿いこちらに訪問。
式内社がこんな距離である。しかもこんなのどかな場所に。

社殿には由緒書きではないが民話が書かれていた。看板に書くにはかなりの長文である。

御朱印
由緒書国玉神社(御社サン)の由来
『子宝の湯、子宝の松』の民話とアスネロの樹コン吉とキツネ火古民話に、天城山頂と久能山頂のキツネ城に王様がいた。仲の悪い原因は駿河湾の所有権。天城の駿河湾だ、久能の駿河湾だと共に一歩も譲らず、常日頃にらみ合っていた。天城の城にはコン吉という美少年王子、久能の城にはコン子という一人娘の姫がいた。二人はいつしか恋心が芽生え、コン吉は泳いで三保の松原、羽衣の松の木陰で愛のひと時、いつしか双方の王様に知れ、結婚どころか二人の王様の仲の悪さは増すばかり。二人は家出を誓い、コン吉は三保海岸から良く見えるキツネ岩にキツネ火を焚き、コン子は故郷の形見に羽衣の松ボックリを口にくわえ、キツネ火をたよりに八里(三〇k)の海、大土肥海岸をめざし泳ぎ着きました。コン子と白酒(甘酒)に、ぬる湯コン子は子どもがお腹にあり、疲労と冷えで息もトギレトギレ、驚いたコン吉はコン子を抱き上げ、ぬる湯(天城の湯)に入れると湯量がコンコンと増えて湧き、白酒(甘酒)を飲ませ体を温め介抱のかいあって、コン子は元気を取り戻し、この時に口にくわえた松ボックリを湯の河原に落としました。二人はキツネ岩に住みつき、コン吉は体の衰弱がひどいコン子に毎日、白酒とぬる湯で母体を温めたので元気になり、無事、子供を産む事ができました。そして、駿河の国伊豆君澤郡大土肥村狐岩城主となり、仲の悪い二人の王様も孫の笑顔を見て、共に笑顔。コン吉コン子も民に親しまれ、近郷の里人はいつしか、ぬる湯を後世「子宝の湯」と言うようになり、小土肥温泉の源泉です。国玉神社(お社サン)と子宝の松
樹高 約百尺(三十三m)

湯の河原に、落とした松ボックリが芽をだし、すくすくと大きくなったので誰言うことなく「子宝の松」(樹齢千数百年)と呼ぶようになりました。里人は、お産の守り神、国玉姫の命を御神体に、子安の神と鬼子母神をまつり、国玉神社を造り、子孫繁栄、産前産後と赤子の産着初参 り、子供に恵まれない人、四百四病の難病非行悩みごとは、子宝の松に抱きつき参拝祈願すると子どもが授かり、悪魔を御払いする御社サンの有り難い神話があります。桃の節句には、身も心も白く清める参斗八升の甘酒を奉納し、「甘酒祭」をして童の育成祈願をしております。

アスネロの樹とチンタチ草

この里には、槙の樹を「アスネロ」、明日葉を「チンタチ」と言う方言がある。千数百年の年月、里人の幸福を授け、昭和半ばに枯死した子宝の松は鬼子母神となり童の育成を願っている。境内には槙アスネロの大樹と原野に明日葉チンタチ山菜が多く生えていて、里料理に授かりいつしか「子宝と夫婦の仲はチンタチを食べてアスもネロ」と夫婦花嫁のお参り、赤子の産着祝いに夫婦重ね餅を奉納、商売繁盛、豊作大漁、福に授かる祈願、長寿と足腰痛の礼参り、槙の大樹を抱く参拝者が多くなりました。近年、境内に愛をささやく若者が増え、恋の芽生えは「縁結び」に御利益が授かる「御社サン」参りと近郷の里人に愛されている「国玉神社」鎮守の御宮です。「子宝の松」弐代目誕生記念に「アスネロの樹」と命名、祝七五三〆(シメ)縄を奉納しております。

大土肥と土肥

古伝説に金山奉行土肥金山街人の数が多く、大土肥は代官村郷で人の数が少ない。勢力争いの根源は川の手長海老を大土肥はガンジャ、土肥はジャンガ、川の小魚を大土肥はカアジ、土肥はモクンチョといまだに双方意地の張り合い。キツネ岩近くに勝負ヶ平の地名がある。どっちが本当か勝負したが未だに決着がついた話はないが、人数の多い金山街を土肥、人数の少ない村郷を小土肥と円満決着したキツネ頓智古話もあります。後日、町政合併で土肥町になり現在は伊豆市小土肥になりました。

平成拾八年吉日 氏子 山元芳光書

[静岡県松崎町] 道部神社(道部)

社名道部神社(みちぶじんじゃ)
所在地
道部神社

静岡県賀茂郡松崎町道部387
社格無格社
静岡県神社庁神社等級(十四等級神社)
御祭神水波能売命(みずはのめのみこと)
神紋
摂末社
情報源道部神社 – 静岡県神社庁
訪問記訪問日: 2017/01/01

R136を松崎から岩地の方に向かう。
長八美術館先の交差点を曲がるとすぐ先に橋。その橋を渡って川沿いに左折。
その先すぐを右折。
神社前には少々の駐車スペースがある。

海辺の平坦な場所から急に駆け上がる山肌。
山の登り始めの場所に鎮座。
海辺であることを忘れさせるような、どちらかというと山奥を感じさせる静寂。

白い明神鳥居をくぐり、階段を上ると社殿。拝殿と覆屋。
拝殿の屋根を見ると龍の絵。仏閣では龍の絵というのは見かける事もあるけれど、神社でこういうのはなかなか見かけない。珍しいなぁ。と思いつつ参拝。

拝殿を覗くと、神社等級認証書が御多分に洩れず掲げてあり、それによると十四等級神社との事。

後に調べてみると、祭りの時期には三番叟が奉納されるとのこと。
伊豆地域はこの三番叟が行われるのが多いらしい。
拝殿を開け広げ、そこで行われるようだ。
時期が時期なので、なかなか気軽に観に行く事もできないんだけれど、一度は見てみたいものだ。

南豆風土誌によると、岩科村道部字横道にある道部神社が当社であると思われる。
創建には「有寛永六年棟札」とあり、寛永六年の棟札があるとされている。

御朱印
由緒書松崎町役場のWebサイトによると

祭神は水波能売命(みずはのめのみこと)。
道部の氏神で、集落の北側、岩科川の河口近くに山を背にして鎮座し社殿境内も整備されている。
毎年、11月3日には獅子舞による村内の浄め、式三番叟を奉納する。

とのこと。

[静岡県松崎町] 天神社(建久寺)

社名天神社(てんじんじゃ)
所在地
天神社

静岡県賀茂郡松崎町建久寺95
社格無格社
御祭神菅原道眞
神紋星梅鉢紋
摂末社
情報源天神社 – 静岡県神社庁
訪問記訪問日: 2016/12/31

曹源山建久寺の北東に隣接、建久寺集落の中心地にこじんまりとして鎮座している。

南豆風土誌の中川村建久寺字西ノ畑にある天神社が当社であると思われる。
祭神は菅原道眞、社格は無格社、創立は不詳ながら天文以降の棟札があるとのこと。ただし、その棟札はのちの火災で失われている。

境内には朱色の両部鳥居。そこを超えると覆殿。
脇には建久寺生活改善センター。公民館のような施設なのかな?

覆殿は扉はしまっていたが世情はされておらず、参拝時に自由に開けられるようになっている模様。
扉を開けて参拝。
中には本殿。資料によると文久元年(1861)九月二五日再興の棟札があるようで約150年の年代物である。

御朱印
由緒書

[埼玉県川越市] 薬師神社(幸町)

社名薬師神社(やくしじんじゃ)
時の鐘薬師神社
川越薬師如来

社殿
所在地
薬師神社

埼玉県川越市幸町15-8
社格無格社
御祭神大己貴命
少彦名命
神紋
摂末社稲荷社
情報源
訪問記訪問日: 2016/10/!5

川越の観光の中心、時の鐘。
川越のシンボルと言えるこの場所。
実は神社である。

しかも、かなり面白い経歴である。
もともとは「瑞光山 医王院 常蓮寺」というお寺で、『新編武蔵風土記稿』ものるお寺であった。
明治期の神仏分離により常蓮寺は廃寺になり、薬師堂は「薬師神社」となった。
祭神は大己貴命・少彦名命となっているが、薬師如来像が祀られており、その当時を偲ばせる。

こういうのを見るにつけ、明治政府の行った行為は日本の文化を破壊しまくったんだなと思う。
日本でも文化大革命を彷彿とさせる文化破壊があって、その片鱗がこういう所で見える。

御朱印
由緒書薬師神社の由来について

当神社は以前瑞光山医王院常蓮寺
という寺であったが明治維新の折
薬師神社となった。明治二十六年
川越大火により時の鐘と共に焼失
翌年再建された。御本尊は薬師如来
の立像で高さ六十糎行基菩薩の作
という。五穀豊穣・家運隆昌・特に
病気平癒の御利益があり眼病には
著しい効果がある。尚、向かって
右奥の稲荷社は出世 開運 合格に
著しいご利益がある。

[東京都中野区] 打越天神北野神社(中野)

社名打越天神北野神社(うちごしてんじんきたのじんじゃ)
所在地
打越天神北野神社

東京都中野区中野5丁目8−1
社格無格社
御祭神菅原道真(すがわらのみちざね)
神紋梅鉢紋
摂末社天神伏見稲荷神社(てんじんふしみいなりじんじゃ) – 宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
情報源打越天神北野神社|中野区中野の神社
訪問記訪問日: 2016/06/06

所用で中野まで来たついでに参拝。
住宅街の中にひっそりと鎮座。
落ち着いた雰囲気でいかにもという神社の空間が残されています。

入り口の神明鳥居をくぐると目の前に社殿。右側には神輿庫と思われる建物、左には境内社である天神伏見稲荷神社。
氏子の方が天神伏見稲荷神社の鳥居などを塗りなおしておられました。

参拝。

人通りの激しい中野駅前から徒歩数分。喧騒から離れ鎮守が守られている。
なんか、そういう所が日本っぽいなぁ。というか、中央線沿線の空気感だなぁ。

御朱印
由緒書