「氷川神社」カテゴリーアーカイブ

[埼玉県川口市] 元郷氷川神社(元郷)

社名元郷氷川神社(もとごうひかわじんじゃ)
所在地
元郷氷川神社

埼玉県川口市元郷1丁目30−2
社格武蔵國四之宮
村社
御祭神祭神
素盞嗚尊(すさのおのみこと)
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと):(別名 狭依毘売命)
合祀
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
菅原道眞公(すがわらのみちざねこう)
大山咋命(おおやまくいのみこと)
火産霊命(ほむすびのみこと)
奥津比古命(おくつひこのみこと)
奥津比賣命(おくつひめのみこと)
神紋八雲紋
摂末社
情報源しあわせの宮 元郷氷川神社
訪問記訪問日: 2017/11/26
御朱印あり(初穂料:300円)
由緒書

[東京都足立区] 宮城氷川神社

社名宮城氷川神社(みやぎひかわじんじゃ)
所在地
宮城氷川神社

東京都足立区宮城1-38
社格
御祭神素戔嗚尊
伊弉諾尊、伊邪那美尊(三峰神社)
木花咲邪媛命(浅間神社)
宇迦御魂命(稲荷神社)
神紋左三つ巴紋
摂末社稲荷神社
水神宮
浅間神社
三峰神社
情報源
訪問記訪問日: 2017/08/18

東京なのに宮城?
地名の由来を調べてみると、戦国時代に豪族の宮城氏が地名の由来で、
しかも、この氷川神社自体は豊島氏の一族で太田資正に仕えた宮城政業の居館跡であある様です。
東京の地名は、収めた一族名がつくことが多い様ですね。

由緒書きを見ると、荒川放水路周辺らしく、放水路工事の際に移転しているとのこと。

公園の隣、明神鳥居をくぐると氷川神社の境内。
正面に社殿、左側に「稲荷神社」と「水神宮」、右側に「宮城富士」とある富士塚があり、そのいただきの上には「浅間神社」と「三峰神社」が鎮座しています。
荒川周辺でよく見る富士塚は登ることを前提とした富士塚(今となっては、怪我をして訴訟を起こされてもとか、壊されてもとかの理由から、登山禁止の場所も多いですが。)が多い中、ここは富士の石で積み上げたあまり登ることを前提としないタイプに見受けられます。

社殿左の水神宮、いろいろ資料を調べているけど、どうも資料が出てこない。
鳥居の後ろの社、その後ろにも水神宮、こちらは石祠を最近に新しくしたのでしょう。

氷川神社の賽銭箱には左三つ巴紋。

御朱印なし? – 江北氷川神社の兼務社
由緒書創建は不詳なれど、古くは豪族の館跡に創建されたと伝う。しかしながら、 大正2年の荒川放水路建設工事にともない社殿を移築しなければならなくなり、現在の地に遷座しました。
境内には足立姫をお奉りしたと伝えられる富士浅間神社・稲荷神社・三峰神社があります。
由緒宮城氷川神社由緒

祭神 素盞嗚尊  例祭 毎年九月十五日

当社の由緒は旧記を欠きその詳細は明らかではない。しかし按ずるに南北朝時代(一三一八ー九二)の昔武蔵国豊島郡一円を領していた豊島重信の子重中が新たに足立郡宮城の地を開発し、宮城八郎と称して居館をこの地に構えたとき守護神として足立郡大宮郷(現埼玉県大宮市)に鎮座する式内社(延喜式神名帳記載)武蔵一ノ宮氷川神社の分霊を勧請して祀ったのが始めである。そのころ宮城の地名はすでに足立姫による姫の父足立庄司宮城宰相の名に基づき、地名として存在していたものと考えられるが伝説による人物は、人皇四十八代聖武天皇の神亀天平時代(七二四ー四八)の人なれば、その実在必らずしも信ずべきにあらず。重中の後四代の子宮城泰業のころ泰業は相州小田原(現神奈川県小田原市)の北條氏に属し、武蔵国岩槻城(現埼玉県岩槻市)にあったが天正十八年(一五九〇)七月北條氏政が豊臣秀吉によって滅ぼされたとき宮城氏も亦北條氏と共に滅びた。しかし守護神は宮城氏没落後も猶この地に鎮座し、江戸時代宮城の地が近世村落として成立したとき、改めて鎮守社として之を祀り、十一面観世音菩薩を本尊とした。蓋し神仏習合によるものである。
その後、大正二年三月、荒川河川改修工事が行わるるや、工事遂行のため社殿移転の議が起り、その結果現在の宮城一丁目三十八番六号の地に遷座することになった。しかしその社殿も昭和二十年四月十三日の戦災により焼失したので、昭和二十年十月旧地に再建した。しかるにその後該地に宮城公園が設置されることになったので、境内の一部と公園敷地一部を交換して昭和三十年十月現在の地に新築移転することになり、今日に及んでいるのである。
因みに境内には伊弉諾尊伊邪那美尊を祭神とする三峰神社
木花咲邪媛命を祭神とする浅間神社
宇迦御魂命を祭神とする稲荷神社

が摂社として祭祀されている。

昭和六十二年正月朔日

[埼玉県朝霞市] 氷川神社

社名氷川神社(ひかわじんじゃ)
所在地
氷川神社

埼玉県朝霞市溝沼6-23-1
社格村社
御祭神
神紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2017/06/10
御朱印
由緒書氷川神社 御由緒

 

□ 御縁起(歴史)

 

かつては当社を「じるいね様」と呼ぶ古老がしばしばあったように、明治四十一年八月八日までは当社は地類神社と称していた。「風土記稿」溝沼村の項には、その沿革について「地類権現社 除地五畝、村の東にあり、社は一間に一間半、南の向ふ、祭神詳ならず、寛文の頃(一六六一-七三)村民畑を耕すとて、地類権現と彫づけし石を得たり、時の地頭中山勘三郎、此由を聞て社を立てんと思けるに、此地を古より稲荷山と号せしかば、社地のあとならんとて、社地と定め、この権現を勧請せりと云伝ふ、村内泉蔵寺の持」と記しており、創建の経緯をうかがうことができる。一方「郡村誌」では、社名は地類神社、祭神は稲田姫命となっていることから、当社は、豊かな実りをもたらす地霊を祀った社として信仰されていたものと推測される。
現在、当社の本殿の中には、「風土記稿」に伝えられる石はなく、代わりに一七基の金幣が祀られている。地類神社から氷川神社へ改称した際の理由は定かではないが、明治四十年に字泉水の無格社氷川神社など地内の神社八社を合祀したことを契機に、村社にふさわしい社名ということで武蔵一宮に倣ったものであろう。十七基の金幣の各々には社名と元鎮座地の字名が記されているが、その中に地類神社と記したものはなく、代わりに氷川神社と記したものが他より大きいのは、そうした事情を物語るものと推測される。

 

□ 御祭神と御神徳

 

・ 稲田姫命・・・五穀豊穣、厄除け

 

□ 御祭日

 

・元旦祭(一月一日)  ・新年祭(二月初午)
・例大祭(四月十八日) ・新穀祭(十一月二十三日)

[埼玉県草加市] 氷川神社

社名氷川神社
所在地
氷川神社

埼玉県草加市小山2丁目6
社格
御祭神
神紋
摂末社
情報源草加市史調査報告書 第三集 草加の社寺
訪問記訪問日: 2017/06/04

ちょうど西松屋の陰になる場所に神社。
集会所の傍。

小ぶりな拝殿の中には一間社流造の本殿。
社殿裏には一体のお地蔵さん、それに稲荷社・菅原社の碑、馬頭観音。

御朱印
由緒書草加市史調査報告書 第三集 草加の社寺

氷川神社

小山町「風稿」に「氷川社、村の鎮守なり、村持にて社傍に庵を作り、僧を置て守らしむ、末社に天神社、疱瘡社」とある。また「郡誌」に「境内に天神社、稲荷社の末社あり」と誌す。現在は「菅原神社 稲荷社」と刻む石柱(明治十三年九月吉日建立)があるのみで社殿は構えていたものであろう。

本殿 桁行一・四尺、梁行〇・八尺、向拝の出 〇・八尺の小規模な建物で、屋根は板葺の目板打ちとする一間社流造である。身舎は円柱に腰長押、内法長押をめぐらし、柱上にて直接桁をうけて、妻飾に束を立てる。向拝柱は几帳面どりの方柱で、頭貫を水引き虹梁に換え、端に象形の彫刻木鼻を用い、柱上に実肘木つき出三斗を組み、虹梁と軒桁の間に彫刻物を備え、軒を二軒としている。洋式細部の特色からみて、18世紀中葉の造立と推定される。

[埼玉県川口市] 朝日氷川神社

社名朝日氷川神社
所在地
朝日氷川神社

埼玉県川口市朝日1−3−15
社格
御祭神素盞嗚命
櫛稲田姫命
神紋
摂末社・出世稲荷神社
・須賀神社
・大国神社
情報源朝日氷川神社
訪問記訪問日: 2017/05/07
御朱印あり(500円) – 社務所にて
由緒書朝日氷川神社 御由緒
川口市朝日一ー三ー十五
□ 御縁起(歴史)
当社創建は、天正年中(一五七三〜室町末期)に今の地に再建されたと
あり、約五百年間と推定される。『風土記稿』に、樋爪村(二十九日村)・
十二月田村・前田村・二軒在家村の鎮守とあり、現在の十二月田を含む朝
日町全域となっている。鎮座地は樋爪村の西端にあり、氏子が氷川大神を
拝する時は、西方にある芝川を望むがごとくある。現在、社殿裏手の道路
は、かつての芝川堤防跡である。
御祭神は素盞嗚命、櫛稲田姫命の二柱で、神仏分離まで内陣には聖観音
を奉安していた。また、素盞嗚命を「牛頭天王」として祀る須賀神社が合
祀されている。
『明細帳」によると、明治四十年六月十四日、大字十二月田字大坪にあっ
た村社稲荷社、大字二軒在家字稲荷田の無格社稲荷社が当社に合祀されて
いる。内陣にはこの両社いずれかのものと思われる「正一位稲荷五柱太神」
と墨書された神璽と、高さ二十五センチメートルの自然石がある。
本殿は一間社流造りで、銅板葺きの屋根となっている。拝殿内には川口市
青木の氷川神社の随神門にあった左大臣、右大臣が奉安されている。大正
十二年の関東大震災では社殿が倒壊するも、昭和十三年七月二十五日に再建。
その後老朽化した建物すべてを「平成の大造営」と称して再建し、平成十五
年五月、新社殿・社務所が木の香清しく完成となった。
□ 御祭神と御神徳
・素盞嗚命・・・・厄除招福、厄災消除、病気平癒
・櫛稲田姫命・・・安産、子育て、夫婦和合、五穀豊穣
□ 末社
・出世稲荷神社 ・須賀神社 ・大国神社
□ 御祭日
・春祭り(二月二十五日) ・夏祭り(七月十五日前後の土、日)
・例大祭(十月十五日) ・新嘗祭(十一月二十三日)

[埼玉県八潮市] 氷川神社(木曽根)

社名氷川神社(ひかわじんじゃ)
所在地
氷川神社

埼玉県八潮市木曽根1092−8
(旧:木曾根字上 昭和61年1月に遷座。中川の河川改修による。)
社格村社(明治四年)
御祭神
神紋
摂末社天満宮
稲荷社
三峰・別雷
情報源埼玉の神社 P.1329
訪問記訪問日: 2017/04/22

三郷から中川を渡り、河川沿いに南下。
車を流していたら、コンビニ傍に鳥居を発見。

社地は微妙な形をしており、社頭からみると、敷地の右側に上木曽根会館、左に明神鳥居。
鳥居の内側は、たぶんだが会館利用者の駐車場となっている。
その億、クランク上に参道が曲がり会館の真裏に社殿が建っている。

由緒によると河川改修の折に移築しているとある。なぜ、まっすぐの参道になるように移築しなかったんだろうか…少々不思議に感じてしまう。

全体的に小ぶりな社地ではあるが、綺麗に整えられており清々しさがある。

面する通りはそこそこの交通量があり、騒々しさがあるけれど。
拝殿に向かうと、ちょうど会館が邪魔をするように立っているせいか、その騒々しさもなくいい感じである。
特徴的なのは鈴緒。右と左に一本ずつぶら下がっているのはいいとして、右側には「男鈴」、左には「女鈴」の文字。男女にて分けている意味なのでしょうかね。
特に説明書きを見つけられなかったけれど、男女にて使う鈴尾を変えるという事なのでしょう。

「埼玉の神社」によると、境内社は天満宮、稲荷社、三峰・別雷。社殿に向かって右側に並ぶ。
稲荷社はのぼりがありわかるが、そのほかはどれがどれに該当するのかの判別がつきにくかった。
普通に数えると7宇の境内社があるように見えるのだが…。

御朱印
由緒書 「埼玉の神社」歴史

永禄八年(一五六五)四月八目の創建と伝えられる当社は、嘉永三年(一八五〇)の本殿再建時の棟札「正一位 久伊豆大明神 氷川大明神」と併記されているように、元来は氷川・久伊豆両社の合殿であった。本殿が二間社になっているのはそのためである。また、この棟札には「別当金蔵院祐試法印」の名が見え、『風土記稿』では金蔵院の境内に「氷川社、村の鎮守なり」とあり、その創建には金蔵院の法印がかかわったことが推測される。
現在、当社の境内は県道に近い新興住宅地の一角にあるが、昭和六十一年一月までほ中川のほとりの、雑木林に囲まれた閑静な地にあった。遷座の理由は、中川の河川改修によるもので、これを機に拝殿・社務所など、境内の諸施設が一新された。ただし、嘉永三年五月に造られた本殿だけは、傷みも少なく、長い間崇敬し親しんできた社であったという理由から、新築はせずに旧地からそのまま移築した。
『風土記稿』に見られるように、木曾根の村内には、当社のほかに八幡社と二社の稲荷社があった。しかし、これらの諸社は当社が明治四年に村杜になったのに対し、無格社となったため、明治四十二年に当社に合祀された。しかし、木曾根新田の稲荷社だけは旧氏子の強い希望から、昭和二十九年に分祀され、照富久稲荷神社と、称して改めて祀られることとなり、現在に至っている。