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[静岡県西伊豆町] 山神社

社名山神社
所在地
山神社

静岡県賀茂郡西伊豆町安良里
社格
御祭神大山祇神
神紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2016/11/25

多爾夜神社の前の道を直進、採石場を超えて奥に進む。
行き止まりまで進むと、そこに鎮座。

昔は下流の部分に橋がかかり、その橋を渡ると参道。参道を登り、鳥居をくぐり…奥に社殿であったが、今はその橋は落とされてしまっており、その道をたどることはできない。

今は社殿脇にかけられた吊り橋を渡って社殿へアクセスすることになる。

なにかの資料(詳細は失念)によると、もともとこの場所には「多爾夜神社」が鎮座しており、何かの時に現在地に遷座したらしい。
確かに滝があり、鬱蒼とした林、せせらぎの音。神聖な感じを受ける良い場所ではある。

御朱印
由緒書山神社の由来

山神社の祭神は二千八百年の昔古
代日本に農耕文化や漁𢭐の技術を
伝え伊豆の国に造船の技を授け給
うた大山祇神であるという古事記
神話によれば天孫ににぎの命と結
ばれた木花咲耶媛と伊豆雲見伝説
の磐長媛も共に大山祇神の娘媛で
あり又孫神の山幸彦と豊玉媛と結
ばれその御孫にあたられるのが人
皇第一代神武天皇である古より大
山祇神が山の神海の神として広く
大衆から崇拝される由縁であると
こ安良里の山神社は文禄三年(一
五九四年)に再建の記録があり昔
より神洞の森に鎮座ましまして村
と信者を守らせた給うのである。

[静岡県伊豆市] 津嶋神社(八木沢)

社名津嶋神社
(牛頭天王神社)
所在地
津嶋神社

静岡県伊豆市八木沢
社格
御祭神
神紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2016/11/25

地図上で「牛頭天王神社」なる神社を見つける。
伊豆市八木沢の丸山城跡のちょうど南側。国道136号線で考えると、ちょうど「食事処 澤」の向かい側の山の山頂。
八木沢という場所は神社の数が結構ある様だ…が、場所がいまいちわからないことが多い。
珍しく、地図上で場所も確認できたし、これは行くしかあるまい。

「大守院」というお寺のちょいと北側の路地から集落に進行。
伊豆らしく細い道。軽自動車でいっぱいいっぱいの道だけど、多分、この集落としてはメインストリート。
その道を登りきると路傍の石仏のある辻。そこを鋭角に曲がり、橋を渡り…。
相変わらずの道の細さ。Googleの地図を見る限り、車での進行ができそうな感じに見えたので、そのまま進行。
のちに真っ青になるとは思いもしなかったけど。
細いなりにも進んでいくと、もうちょっとで神社というところで道は右に大きく曲がる。曲がりきれない様な道ではないので、ギリギリだが曲がる…その先に神社はあったが…車を回す余地もなければ、その先進行できる道幅もなくなっている。正直言って「The END」である。
細くガードレールもない崖っぷちの道、全身でギリギリ感のあったコーナー、これらを背中向き戻る羽目に。嫌な汗全開。
伊豆道感覚だと、このくらいの道幅ってよくあるよね?って感覚に汚染されたのが敗因。

この神社を目指す場合は、手抜きせずに自分の足で登山がベスト

社頭には「津嶋神社(天王山)」の表示。地図にある「牛頭天王神社」ではない模様。
津島神社で津島信仰であれば、その昔、総本社の津島牛頭天王社(津島天王社)が津島神社に改称した際に、多くの神社が津島神社に改称している。その一社だとすれば、歴史的経緯としては牛頭天王神社だが、現在の社名は津嶋神社なのであろう。

比較的新しい、鳥居、近年整備されたであろう石段を登ると石灯籠と社殿がお出迎え。
そして振り返ると駿河湾を見渡す絶景。

社殿は、拝殿と覆殿。覆殿の中に本殿。
ともに鍵はかかっておらず、必要に応じて扉を開けて参拝するスタイル。

現在、由緒等を調査しているが、詳細不明。

御朱印
由緒書

[静岡県松崎町] 火産霊神社

社名火産霊神社(ほむすびじんじゃ)
所在地
火産霊神社

静岡県賀茂郡松崎町吉田16
社格静岡県神社庁神社等級 一五等級神社(昭和三十五年十月一日)
御祭神天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)
手置帆負命(たおきほおいのみこと)
天彦狭知命(あめのひこさしりのみこと)
神紋
摂末社津島神社
稲荷神社
情報源
訪問記訪問日: 2016/11/23

Google Maps上では、「三宝大荒神神社」となっている神社。

松崎から峠に向かい、エネオスの手前の路地を左に入る。
軽自動車であれば余裕だけど、小型車以外は立ち入らない方が良いレベルの道。
直進し、行き止まりを左へ。細く心配になるけど道なりに進むと「吉田公民館」が左手に見える。
そこを右に折れて進む。行き止まりの場所が該当。

苔むした階段を登ると鳥居、さらに階段を登り覆殿へ。

扉は鍵がかかっておらず、参拝時には扉を開けて良いようなので、開けて参拝。
覆殿には鈴ではなく、鰐口が吊るされています。
地域では荒神と称されることもある様だし、Google Maps上では三宝大荒神神社となっている様でもあるので、扱いとしては三宝荒神の様にされているのかもしれない。役小角が伊豆に縁があるというのも関連するのかもしれないけれど。
いずれ、そうだとすると、一礼、三拍手、一礼で参拝すべきだったのかもしれない。

また、【資料】松崎町史資料編 第一集 神社・寺院編には、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)・手置帆負命(たおきほおいのみこと)・天彦挟知命(あめのひこさしりのみこと)の3柱が祭神であるとされているけれど。神社名である火産霊は、ご存知の通り、神産みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれた火の神、軻遇突智(かぐつち)の事。

正式な神社名や周囲での呼び名から考えても、火の神を祀る神社である事は間違いないだろう。ただ、資料にある祭神と一致しないところが気になる感じではある。
過去の資料をもうちょっと追いかけると何かわかるのかもしれない。

覆屋内の境内社には小さな本殿。中には津島神社と仲良く並んで牛頭天王の大麻収められておりました。これが資料にある津島神社なのでしょう。
島津信仰は牛頭天王なので、そういう組み合わせなのでしょうね。

御朱印なし
由緒書【資料】松崎町史資料編 第一集 神社・寺院編
火産霊神社祭神
天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)
手置帆負命(たおきほおいのみこと)
天彦挟知命(あめのひこさしりのみこと)

由緒
創立期は不詳、吉田集落の北側の小高い地に、南面する社で荒神と称されることもある。それは社名の火産霊神社が日本書紀に見られ、火をつかさどる神で、保温、炊事、照明、冶金その他諸般の恩恵を与え、また一方その怒りにふれると、たちまち非常の災害に見舞れると信じられたことに由来するものと思われる。
豆州志稿によると「寛永五年(一六二八)ノ上梁文アリ又三尺許リ(約九〇センチメートル)ノ板二枚ニ梵字七字ツツ、刻シタルヲ蔵ス古物也」とあるが今は見当たらない。
天保年間(一八三〇〜四四)火災により消失。嘉永六年(一八五三)再建の棟札がある。
一般に火の神は女性だとされており、本社は御産の神様としても信仰されている。妊婦は社にあげてある麻を少量いただいてかえり、枕元に置いて安産の御守りとする。無事出産後、この麻は胎盤と共に埋める。お礼として新しい麻を神社に奉納する風習がある。
殿内に明治三〇年(一八九七)六月の俳句の額がある。

例祭日
二月一一日

例祭日の行事
弓引き、戦時中も欠かしたことのない神事である。
弓は新竹の丸竹で二張り、弓弦は、かつては安産祈願の御礼に奉納された白麻をよりあわせたものを用いた。矢も新竹の小竹で大小各四本、的は大が一尺五寸(約四五センチメートル)小は約一尺(三〇センチメートル)距離は五間(約九メートル)七間(一二・七メートル)弓太郎(弓引き役)は十五歳の少年二名で、各一〇射し命中率が高い程、五穀豊穣と無病息災の厄除けが達成されるとされている。昔は弓太郎をつとめると、以降村人足など一人前の扱いを受けた。従って昔の元服の名残りと思われている。

殿字
拝殿 なし
覆殿 造立不詳
本殿 嘉永六年(一八五三)九月再建
社務所 かつてあったという跡がある

境内社
津島神社
稲荷神社
石宮(祭神不詳)
庚申塔二基

棟札
一 嘉永六年(一八五三)九月 上棟
二 嘉永六年(一八五三)九月 再建遷宮
三 文久二年(一八六二)九月 鳥居再建
四 明治三十一年(一八九八)二月 奉修三神

[静岡県西伊豆町] 山神社

社名山神社(やまじんじゃ)
山王宮
山神宮
所在地
山神社

静岡県賀茂郡西伊豆町一色868
社格静岡県神社庁神社等級 十四等級神社(昭和五十六年七月一日)
御祭神祭神
山神大明神(大山祇大神)山神社

合祀神
牛頭天王(素戔嗚尊)天王社
金毘羅大権現(大物主命)金毘羅社

神紋
摂末社金毘羅権現
天王社
情報源
訪問記訪問日: 2016/11/23

資料には記載があったけれど、地図には記載がなくどこにあるんだろうかと以前から探していた場所。
伊豆半島ジオパークの「仁科層群の枕状溶岩、岩脈」に向かっていたところ、一色橋を渡ったところで広場に提灯があるのが気になった。夏祭りがあるという事はその付近には神社があるんだろうな。と周囲を見渡すとありましたよ神社。
ジオパークに向かう方向に見て左側。山の斜面に社殿。
社殿前にはフェンスに囲まれた社地があり、車を駐車可能な模様。

綺麗に整備されており、地域の人々に信仰されているのがよくわかります。

階段を登り参拝。
社殿は参拝時に自由に扉を開けて良いようで、鍵はしまっておらず。ご好意に甘えて扉を開けて参拝。

中央に本殿、左右に1宇ずつ、合祀神が鎮座しています。
覆殿の中には、静岡の神社らしく「神社等級認証書」が掲示されています。
「静岡県神社庁神社等級規定 十四等級神社」

一色地区には穂積神社、水神社などもあるはずなんだけど…未だに不明。
小字が見えなくなってしまった今、なかなか難しいですねぇ。

御朱印なし
由緒書山神社
西伊豆町一色八六八番地(小字能山)祭神
山神大明神(大山祇大神)山神社

合祀神
牛頭天王(素戔嗚尊)天王社
金毘羅大権現(大物主命)金毘羅社

環境
山神社は仁科川にかかる一色橋を渡った一色林道口の能山に位置する。社有地は境内地二一八・〇七坪、後背山林地八畝一三歩を有する。石段の左側に厳として立つ巨樹はムクノキで、古名をクラまたはホコといい、神の座、神の依代とされている。その後方にイヌマキ(アスナロウ)が直立し、古木ゆえ枝葉を下垂している。石段の右側に枝下の高いケンポナシ(ケンプンナシ)がそびえている。昔から霊力のある木、実を食べると、水難から身を護ることができると伝えられている。

縁起
創建紀年は不詳、古老の口碑によれば、一色村の草分け山本伊予守の創建にして、神社入口の宮ノ前家の祖なりといい、一色に山本姓が多いのは、当社創建の祖とかかわりある故という。
延徳三年(一四九一)北条早雲が伊豆を平定したとき大田子の小松城主山本太郎左衛門尉は、北条に仕え地頭となり、一色所領七十貫文を受けている。
最古の山神棟札は慶長十五年(一六一〇)で

日本国中東海道伊豆州仁科庄一色村氏子共并堀坂村
孫左衛門祢宜於本神以供養儀式者也
奉再興山神御寳殿之前破依之祈及十カ年者也
依之氏子達合歓進祈願成就皆令満足各々子孫繁
栄五願圓満息災延命至者也
于時慶長十五年庚戌年閏二月吉日
本願 山本源兵衛、他四名(解読不能)

棟札に見られる山神社の祭神名は、再建時の慶長十五年から元禄四年(一六九二)までは、山神、山神大明神、社名を山神宮としている。
往古には山に神宿る自然信仰があり、山神は水をもたらす田の神・糧をもたらす神、自然の脅威から免れたい神頼みの風習があったと思われる。
山神宮の祢宜は堀坂村の金刺左衛門・孫衛門・孫右衛門が奉仕している事は注目される。
宝暦十二年(一七六二)から安政五年までは、神仏習合の思想により山神を山王権現、社名を山王宮としている。
山王宮の奉仕者は大泉院・最勝寺の修験者が明治維新まで社僧をつとめている。宝暦十二年の再建時に、一色法雲寺十世鳳州教和尚は「山王権現中興造営記」のなかで、「此ノ
時年老ノ者語リ伝ヘテ云当所山王権現ノ来歴ヲ尋ヅヌルニ五百年前ハ仁科郷中ノ鎮守イズレモ沢田一村ニ宮居在スト云所謂ル沢田ハ一郷ノ吉■ノ如キ者カ其ノ後村里ノ氏神村里毎ニ之ヲ勧請奉
ルト見ヘタリ時ニ此ノ山王モ此ノ一色ノ邑へ勧請在リト云イ伝ヘタリ惜イ哉其ノ年暦ヲ記シ置カザルナリ」と書いている。
願主は山本文之右衛門方昭(大屋屋敷)氏子中である。この年、寛永二十一年(一六四四)造立の天神社殿を再建している。今屋号天神前の背戸に鎮座している。
天明五年(一七八五)に氏子惣村中により山王権現立像の御神体を奉納している。棟札には御腹籠守古来霊体、慈覚大師作と記している。神仏一体の権現信仰によるものである。
天保十二年(一八四一)山王宮を再建、願主は山本源左衛門、組頭須田次良左衛門、百姓代山本長吉、祢宜山本藤八、別当護国院最勝寺。
明治九年の地租改正絵図(一色紙家の山本鶴衛ら三名の調査)に、山王宮を日吉社を記している。
大正十二年の本殿修繕棟札には、祭神を大山祇大神としている。明治の神仏分離、国家宗祀により神名の変更がなされたと思われる。大正九年奉納の宮幟には大山祇命と書かれている。
平成四年、本殿老朽化のため、氏子惣中により再建している。山神社の棟札は一七枚ある。

合祀神

金毘羅権現は本殿内の左側に祀られている。棟札は四枚あり、慶応元年(一八六五)山本文之右衛門(大屋屋敷)ら十五名が、農蚕隆昌・木炭殖産を祈願して、現屋号ヤドの背戸に建立した。明治十三年の再建時に山神社境内地に遷座し、昭和二十四年に祠が老朽化したので、山神社本殿内に併祀しれた。

天王社は本殿内の右側に祀られている。津島神社氷室神主家の手代が頒布した神札四枚があり、牛頭天王疫病禦御立札あるいは津島神社御祓大麻とある。幟(縦九二センチメートル、巾三〇センチメートル)に、奉納牛頭天王、万延二年(一八六一)山本氏と記されている。

[静岡県西伊豆町] 天満天神宮(栗原)

社名天満天神宮
所在地
天満天神宮

静岡県賀茂郡西伊豆町中827
社格無格社
静岡県神社庁神社等級 十四等級神社(昭和五十六年七月一日)
御祭神菅原大臣命
神紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2016/11/23

仁科中学校の運動場の後ろ、隠れるように…かすかに鳥居が見える。神社だ。仁科中学校運動場の東端、栗原集落の入口を左へ入り、長光寺の方向にグランドに沿って約一〇〇メートルほどでアプローチできる。
資料によると、昔は参道があり、まっすぐに神社の鳥居に向かっていけたらしい。いつの段階かで運動場ができて分断されてしまったということのようです。ひとまず、迂回しつつアプローチ。
運動場側に廻り込み、まずは鳥居をくぐる。
鳥居の先に拝殿。
拝殿は伊豆このあたりでよく見かけるタイプ。普通の民家の玄関を開けるとその奥に本殿みたいな。
拝殿から覆殿までの階段、石段の両脇にのちに手すりをつけた模様。もともとは脇から回り込んで本殿にというスタイルのだったのかもしれません。
手すりがついたからといって、入れなくなったわけではなく。
脇の道を使えばもちろんアプローチ可。
ということで、本殿にご挨拶…覆屋には鍵。隙間から覗くと、伊豆らしく等級の表示。

小さいながらに整備された境内、地域の信仰が残っているのでしょう。

御朱印
由緒書

[静岡県沼津市] 城岡神社

社名城岡神社(しろおかじんじゃ)
所在地
城岡神社

静岡県沼津市大手町3-5-17
社格
御祭神
神紋
抱き稲に二重亀甲に丸に三つ葵紋
抱き稲に二重亀甲に丸に三つ葵紋

抱き稲に二重亀甲に丸に三つ葵紋?

※ ともかく、なんでもありの神紋。
※ 抱き稲=稲荷 二重亀甲=大国主 丸に三つ葵=徳川家康 を意味するのでしょう。
※ 御朱印をもらう際に、そういうことですかね?と伺ったら、「欲張りでしょ?」とお答えいただいたので、そういうことなんだと思われる。

摂末社
情報源城岡神社 – 静岡県神社庁
訪問記訪問日: 2017/08/19

恒例の伊豆参拝旅行の行きがてら、渋滞避けで久しぶりの沼津。

市街地の良立地。
間口は広いが、奥行きはあまりない感じの社地で、鬱蒼とした社叢がという神社が多い中、ここは真逆。
近代的な感じがする神社です。
ひとまず、鳥居をくぐると数十歩の参道、まずは参拝。

その後、御朱印をもらおうと社務所を探す。
社殿の右後ろには公民館風の鉄筋の建造物。どうも、そこが社務所の様です。
雑居ビルとして建築し、店子をとって収入としているのでしょう。
入り口を入ると、医院の看板などが上がっていたので、そうなんだろうと推測。

入り口ホール入って、すぐの受付の様な場所が社務所。
そこで御朱印をいただく。

市街地ゆえに駐車場はなし。ただ、地下や付近には有料駐車場も多いので、それらを利用するもが良さそう。

御朱印あり – 社務所にて300円
由緒書城岡神社

御祭神 宇迦之御魂神(お稲荷さん)
相 殿 東照大権現(徳川家康公)
大国主之命(出雲さん)

御由緒

往古 沼津城の丑寅(東北)老松鬱蒼として森厳を極めたる
一丘に小祠あり(縁起不詳)
沼津城第二代の城主水野忠成公文政七年(一八二四)五月
二十五日社殿を造営し時の第十一代将軍徳川家斉公より
山城国伏見稲荷の御神体を拝受し城の守護神として
奉斎した(稲荷神社と称す)
以降毎年一回大祭を斎行し庶民の参拝を許した
明治維新の際廃藩せられ場内区民の守護神として祀ら
れることとなる
明治七年東照宮(東照大権現)を相殿に迎え権現様の
愛称を以って崇敬を蒐む
爾来当社は稲荷様とも権現様とも称えられていたが
明治三十六年六月城岡神社と改称し社号を統一した
明治三十九年出雲大社の御分霊(大国主之命)を奉斎した
平成三年十一月大手町町制創立百周年の記念事業により
社殿を新築し境内整備を行った

[東京都足立区] 宮城氷川神社

社名宮城氷川神社(みやぎひかわじんじゃ)
所在地
宮城氷川神社

東京都足立区宮城1-38
社格
御祭神素戔嗚尊
伊弉諾尊、伊邪那美尊(三峰神社)
木花咲邪媛命(浅間神社)
宇迦御魂命(稲荷神社)
神紋左三つ巴紋
摂末社稲荷神社
水神宮
浅間神社
三峰神社
情報源
訪問記訪問日: 2017/08/18

東京なのに宮城?
地名の由来を調べてみると、戦国時代に豪族の宮城氏が地名の由来で、
しかも、この氷川神社自体は豊島氏の一族で太田資正に仕えた宮城政業の居館跡であある様です。
東京の地名は、収めた一族名がつくことが多い様ですね。

由緒書きを見ると、荒川放水路周辺らしく、放水路工事の際に移転しているとのこと。

公園の隣、明神鳥居をくぐると氷川神社の境内。
正面に社殿、左側に「稲荷神社」と「水神宮」、右側に「宮城富士」とある富士塚があり、そのいただきの上には「浅間神社」と「三峰神社」が鎮座しています。
荒川周辺でよく見る富士塚は登ることを前提とした富士塚(今となっては、怪我をして訴訟を起こされてもとか、壊されてもとかの理由から、登山禁止の場所も多いですが。)が多い中、ここは富士の石で積み上げたあまり登ることを前提としないタイプに見受けられます。

社殿左の水神宮、いろいろ資料を調べているけど、どうも資料が出てこない。
鳥居の後ろの社、その後ろにも水神宮、こちらは石祠を最近に新しくしたのでしょう。

氷川神社の賽銭箱には左三つ巴紋。

御朱印なし? – 江北氷川神社の兼務社
由緒書創建は不詳なれど、古くは豪族の館跡に創建されたと伝う。しかしながら、 大正2年の荒川放水路建設工事にともない社殿を移築しなければならなくなり、現在の地に遷座しました。
境内には足立姫をお奉りしたと伝えられる富士浅間神社・稲荷神社・三峰神社があります。
由緒宮城氷川神社由緒

祭神 素盞嗚尊  例祭 毎年九月十五日

当社の由緒は旧記を欠きその詳細は明らかではない。しかし按ずるに南北朝時代(一三一八ー九二)の昔武蔵国豊島郡一円を領していた豊島重信の子重中が新たに足立郡宮城の地を開発し、宮城八郎と称して居館をこの地に構えたとき守護神として足立郡大宮郷(現埼玉県大宮市)に鎮座する式内社(延喜式神名帳記載)武蔵一ノ宮氷川神社の分霊を勧請して祀ったのが始めである。そのころ宮城の地名はすでに足立姫による姫の父足立庄司宮城宰相の名に基づき、地名として存在していたものと考えられるが伝説による人物は、人皇四十八代聖武天皇の神亀天平時代(七二四ー四八)の人なれば、その実在必らずしも信ずべきにあらず。重中の後四代の子宮城泰業のころ泰業は相州小田原(現神奈川県小田原市)の北條氏に属し、武蔵国岩槻城(現埼玉県岩槻市)にあったが天正十八年(一五九〇)七月北條氏政が豊臣秀吉によって滅ぼされたとき宮城氏も亦北條氏と共に滅びた。しかし守護神は宮城氏没落後も猶この地に鎮座し、江戸時代宮城の地が近世村落として成立したとき、改めて鎮守社として之を祀り、十一面観世音菩薩を本尊とした。蓋し神仏習合によるものである。
その後、大正二年三月、荒川河川改修工事が行わるるや、工事遂行のため社殿移転の議が起り、その結果現在の宮城一丁目三十八番六号の地に遷座することになった。しかしその社殿も昭和二十年四月十三日の戦災により焼失したので、昭和二十年十月旧地に再建した。しかるにその後該地に宮城公園が設置されることになったので、境内の一部と公園敷地一部を交換して昭和三十年十月現在の地に新築移転することになり、今日に及んでいるのである。
因みに境内には伊弉諾尊伊邪那美尊を祭神とする三峰神社
木花咲邪媛命を祭神とする浅間神社
宇迦御魂命を祭神とする稲荷神社

が摂社として祭祀されている。

昭和六十二年正月朔日

[東京都文京区] 駒込天祖神社

社名駒込天祖神社(こまごめてんそじんじゃ)
駒込神明宮
所在地
朝日氷川神社

東京都文京区本駒込3-40-1
社格村社
駒込村総鎮守
御祭神天照大御神(あまてらすおおみかみ)

宇迦御魂命 (うかのみたまのみこと) – 鎮火稲荷神社
淤母陀流神(おもだるのかみ) – 榊神社
阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ) – 榊神社
須佐之男命(すさのおのみこと) – 須賀神社
天手力男命(あめのたぢからおのみこと) – 戸隠熱田神社
倭健命(やまとたけるのみこと) – 戸隠熱田神社

神紋花菱紋
摂末社鎮火稲荷神社(ちんかいなりじんじゃ)
三社合祭社(さんしゃごうさいしゃ) – 榊神社(さかきじんじゃ) : 須賀神社(すがじんじゃ) : 戸隠熱田神社(とがくしあつたじんじゃ)
情報源文京区 天祖神社(てんそじんじゃ)
訪問記訪問日: 2017/08/19

駒込駅より徒歩範囲。都道455線より入った場所に鎮座。
ここ、目指してくる様な状況でなければ、存在自体も気がつかなかったかも…。

ちなみに駐車スペースはなく、また路上駐車ができる様な道路上の余裕もありません。
近隣に幾らかのコインパーキングがあるので、車の場合はコインパーキングを利用するのが便利かもしれません。

住宅街の一角、細い路地の入り組んだ地域だけに、ちょっと狭苦しい感じがするけれど、境内に入ってしまうと、いかにも神域という空気が感じられます。

社頭から…まず、社号標を右手に見ながら、神明鳥居をくぐると境内。
境内は木々が茂り、いい雰囲気です。
参道を進むと三社合祭社、稲荷神社。そして、狛犬。
狛犬はなかなかに迫力がある子達。

拝殿横には社務所があり、そこで御朱印がいただけます。
駒込富士神社の御朱印もこちらでいただくことができるので、天祖神社にお参りする前に駒込富士登山をしてからというのもいいでしょう。駒込富士神社までは徒歩でも10分ほど。

御朱印あり(300円) – 社務所にて:書き置きの場合あり
由緒書天祖神社

江戸時代、駒込の氏神として、神明さまと呼ばれ、里人に親しまれてきた。社伝によると、文治5年(1189)源頼朝が奥羽征伐(藤原泰衡追討)の途中、この地に立ち寄り、夢のお告げで、松の枝に大麻(伊勢神宮のおふだ)がかかっているのを見つけた。頼朝は、討伐のよい前触れと喜び、この地に神明(天照大神)を祭ったのが、この神社の起源と言われる。社殿の様式は、神明造り。
大麻のかかっていた大木は、神木として崇められ、さしわたし4尺(12m)もある大木と伝えられている。(『江戸砂子』から)
その後、宮守もなく神木の根元に小さな祠を残すだけとなったが、1650年頃、堀丹後守利直によって再興された。神木は、その後枯れたという。
社殿の裏に、都立駒込病院あたりにあった「鷹匠組」の寄進名が刻まれた石柱が、いまも残る。

ー郷土愛をはぐくむ 文化財ー
東京都文京区教育委員会 昭和63年3月