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[東京都足立区] 宮城氷川神社

社名宮城氷川神社(みやぎひかわじんじゃ)
所在地
宮城氷川神社

東京都足立区宮城1-38
社格
御祭神素戔嗚尊
伊弉諾尊、伊邪那美尊(三峰神社)
木花咲邪媛命(浅間神社)
宇迦御魂命(稲荷神社)
神紋左三つ巴紋
摂末社稲荷神社
水神宮
浅間神社
三峰神社
情報源
訪問記訪問日: 2017/08/18

東京なのに宮城?
地名の由来を調べてみると、戦国時代に豪族の宮城氏が地名の由来で、
しかも、この氷川神社自体は豊島氏の一族で太田資正に仕えた宮城政業の居館跡であある様です。
東京の地名は、収めた一族名がつくことが多い様ですね。

由緒書きを見ると、荒川放水路周辺らしく、放水路工事の際に移転しているとのこと。

公園の隣、明神鳥居をくぐると氷川神社の境内。
正面に社殿、左側に「稲荷神社」と「水神宮」、右側に「宮城富士」とある富士塚があり、そのいただきの上には「浅間神社」と「三峰神社」が鎮座しています。
荒川周辺でよく見る富士塚は登ることを前提とした富士塚(今となっては、怪我をして訴訟を起こされてもとか、壊されてもとかの理由から、登山禁止の場所も多いですが。)が多い中、ここは富士の石で積み上げたあまり登ることを前提としないタイプに見受けられます。

社殿左の水神宮、いろいろ資料を調べているけど、どうも資料が出てこない。
鳥居の後ろの社、その後ろにも水神宮、こちらは石祠を最近に新しくしたのでしょう。

氷川神社の賽銭箱には左三つ巴紋。

御朱印なし? – 江北氷川神社の兼務社
由緒書創建は不詳なれど、古くは豪族の館跡に創建されたと伝う。しかしながら、 大正2年の荒川放水路建設工事にともない社殿を移築しなければならなくなり、現在の地に遷座しました。
境内には足立姫をお奉りしたと伝えられる富士浅間神社・稲荷神社・三峰神社があります。
由緒宮城氷川神社由緒

祭神 素盞嗚尊  例祭 毎年九月十五日

当社の由緒は旧記を欠きその詳細は明らかではない。しかし按ずるに南北朝時代(一三一八ー九二)の昔武蔵国豊島郡一円を領していた豊島重信の子重中が新たに足立郡宮城の地を開発し、宮城八郎と称して居館をこの地に構えたとき守護神として足立郡大宮郷(現埼玉県大宮市)に鎮座する式内社(延喜式神名帳記載)武蔵一ノ宮氷川神社の分霊を勧請して祀ったのが始めである。そのころ宮城の地名はすでに足立姫による姫の父足立庄司宮城宰相の名に基づき、地名として存在していたものと考えられるが伝説による人物は、人皇四十八代聖武天皇の神亀天平時代(七二四ー四八)の人なれば、その実在必らずしも信ずべきにあらず。重中の後四代の子宮城泰業のころ泰業は相州小田原(現神奈川県小田原市)の北條氏に属し、武蔵国岩槻城(現埼玉県岩槻市)にあったが天正十八年(一五九〇)七月北條氏政が豊臣秀吉によって滅ぼされたとき宮城氏も亦北條氏と共に滅びた。しかし守護神は宮城氏没落後も猶この地に鎮座し、江戸時代宮城の地が近世村落として成立したとき、改めて鎮守社として之を祀り、十一面観世音菩薩を本尊とした。蓋し神仏習合によるものである。
その後、大正二年三月、荒川河川改修工事が行わるるや、工事遂行のため社殿移転の議が起り、その結果現在の宮城一丁目三十八番六号の地に遷座することになった。しかしその社殿も昭和二十年四月十三日の戦災により焼失したので、昭和二十年十月旧地に再建した。しかるにその後該地に宮城公園が設置されることになったので、境内の一部と公園敷地一部を交換して昭和三十年十月現在の地に新築移転することになり、今日に及んでいるのである。
因みに境内には伊弉諾尊伊邪那美尊を祭神とする三峰神社
木花咲邪媛命を祭神とする浅間神社
宇迦御魂命を祭神とする稲荷神社

が摂社として祭祀されている。

昭和六十二年正月朔日