社名 | 津嶋神社 (牛頭天王神社) |
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所在地 | 静岡県伊豆市八木沢 |
社格 | – |
御祭神 | – |
神紋 | – |
摂末社 | – |
情報源 | – |
訪問記 | 訪問日: 2016/11/25 地図上で「牛頭天王神社」なる神社を見つける。 伊豆市八木沢の丸山城跡のちょうど南側。国道136号線で考えると、ちょうど「食事処 澤」の向かい側の山の山頂。 八木沢という場所は神社の数が結構ある様だ…が、場所がいまいちわからないことが多い。 珍しく、地図上で場所も確認できたし、これは行くしかあるまい。 「大守院」というお寺のちょいと北側の路地から集落に進行。 伊豆らしく細い道。軽自動車でいっぱいいっぱいの道だけど、多分、この集落としてはメインストリート。 その道を登りきると路傍の石仏のある辻。そこを鋭角に曲がり、橋を渡り…。 相変わらずの道の細さ。Googleの地図を見る限り、車での進行ができそうな感じに見えたので、そのまま進行。 のちに真っ青になるとは思いもしなかったけど。 細いなりにも進んでいくと、もうちょっとで神社というところで道は右に大きく曲がる。曲がりきれない様な道ではないので、ギリギリだが曲がる…その先に神社はあったが…車を回す余地もなければ、その先進行できる道幅もなくなっている。正直言って「The END」である。 細くガードレールもない崖っぷちの道、全身でギリギリ感のあったコーナー、これらを背中向き戻る羽目に。嫌な汗全開。 伊豆道感覚だと、このくらいの道幅ってよくあるよね?って感覚に汚染されたのが敗因。 この神社を目指す場合は、手抜きせずに自分の足で登山がベスト 社頭には「津嶋神社(天王山)」の表示。地図にある「牛頭天王神社」ではない模様。 津島神社で津島信仰であれば、その昔、総本社の津島牛頭天王社(津島天王社)が津島神社に改称した際に、多くの神社が津島神社に改称している。その一社だとすれば、歴史的経緯としては牛頭天王神社だが、現在の社名は津嶋神社なのであろう。 比較的新しい、鳥居、近年整備されたであろう石段を登ると石灯籠と社殿がお出迎え。 そして振り返ると駿河湾を見渡す絶景。 社殿は、拝殿と覆殿。覆殿の中に本殿。 ともに鍵はかかっておらず、必要に応じて扉を開けて参拝するスタイル。 現在、由緒等を調査しているが、詳細不明。 |
御朱印 | – |
由緒書 | – |
社名 | 火産霊神社(ほむすびじんじゃ) |
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所在地 | 静岡県賀茂郡松崎町吉田16 |
社格 | 静岡県神社庁神社等級 一五等級神社(昭和三十五年十月一日) |
御祭神 | 天御中主命(あめのみなかぬしのみこと) 手置帆負命(たおきほおいのみこと) 天彦狭知命(あめのひこさしりのみこと) |
神紋 | – |
摂末社 | 津島神社 稲荷神社 |
情報源 | – |
訪問記 | 訪問日: 2016/11/23 Google Maps上では、「三宝大荒神神社」となっている神社。 松崎から峠に向かい、エネオスの手前の路地を左に入る。 軽自動車であれば余裕だけど、小型車以外は立ち入らない方が良いレベルの道。 直進し、行き止まりを左へ。細く心配になるけど道なりに進むと「吉田公民館」が左手に見える。 そこを右に折れて進む。行き止まりの場所が該当。 苔むした階段を登ると鳥居、さらに階段を登り覆殿へ。 扉は鍵がかかっておらず、参拝時には扉を開けて良いようなので、開けて参拝。 覆殿には鈴ではなく、鰐口が吊るされています。 地域では荒神と称されることもある様だし、Google Maps上では三宝大荒神神社となっている様でもあるので、扱いとしては三宝荒神の様にされているのかもしれない。役小角が伊豆に縁があるというのも関連するのかもしれないけれど。 いずれ、そうだとすると、一礼、三拍手、一礼で参拝すべきだったのかもしれない。 また、【資料】松崎町史資料編 第一集 神社・寺院編には、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)・手置帆負命(たおきほおいのみこと)・天彦挟知命(あめのひこさしりのみこと)の3柱が祭神であるとされているけれど。神社名である火産霊は、ご存知の通り、神産みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれた火の神、軻遇突智(かぐつち)の事。 正式な神社名や周囲での呼び名から考えても、火の神を祀る神社である事は間違いないだろう。ただ、資料にある祭神と一致しないところが気になる感じではある。 過去の資料をもうちょっと追いかけると何かわかるのかもしれない。 覆屋内の境内社には小さな本殿。中には津島神社と仲良く並んで牛頭天王の大麻収められておりました。これが資料にある津島神社なのでしょう。 島津信仰は牛頭天王なので、そういう組み合わせなのでしょうね。 |
御朱印 | なし |
由緒書 | (【資料】松崎町史資料編 第一集 神社・寺院編) —火産霊神社祭神 天御中主命(あめのみなかぬしのみこと) 手置帆負命(たおきほおいのみこと) 天彦挟知命(あめのひこさしりのみこと)由緒 創立期は不詳、吉田集落の北側の小高い地に、南面する社で荒神と称されることもある。それは社名の火産霊神社が日本書紀に見られ、火をつかさどる神で、保温、炊事、照明、冶金その他諸般の恩恵を与え、また一方その怒りにふれると、たちまち非常の災害に見舞れると信じられたことに由来するものと思われる。 豆州志稿によると「寛永五年(一六二八)ノ上梁文アリ又三尺許リ(約九〇センチメートル)ノ板二枚ニ梵字七字ツツ、刻シタルヲ蔵ス古物也」とあるが今は見当たらない。 天保年間(一八三〇〜四四)火災により消失。嘉永六年(一八五三)再建の棟札がある。 一般に火の神は女性だとされており、本社は御産の神様としても信仰されている。妊婦は社にあげてある麻を少量いただいてかえり、枕元に置いて安産の御守りとする。無事出産後、この麻は胎盤と共に埋める。お礼として新しい麻を神社に奉納する風習がある。 殿内に明治三〇年(一八九七)六月の俳句の額がある。 例祭日 二月一一日 例祭日の行事 弓引き、戦時中も欠かしたことのない神事である。 弓は新竹の丸竹で二張り、弓弦は、かつては安産祈願の御礼に奉納された白麻をよりあわせたものを用いた。矢も新竹の小竹で大小各四本、的は大が一尺五寸(約四五センチメートル)小は約一尺(三〇センチメートル)距離は五間(約九メートル)七間(一二・七メートル)弓太郎(弓引き役)は十五歳の少年二名で、各一〇射し命中率が高い程、五穀豊穣と無病息災の厄除けが達成されるとされている。昔は弓太郎をつとめると、以降村人足など一人前の扱いを受けた。従って昔の元服の名残りと思われている。 殿字 拝殿 なし 覆殿 造立不詳 本殿 嘉永六年(一八五三)九月再建 社務所 かつてあったという跡がある 境内社 津島神社 稲荷神社 石宮(祭神不詳) 庚申塔二基 棟札 一 嘉永六年(一八五三)九月 上棟 二 嘉永六年(一八五三)九月 再建遷宮 三 文久二年(一八六二)九月 鳥居再建 四 明治三十一年(一八九八)二月 奉修三神 |
社名 | 山神社(やまじんじゃ) 山王宮 山神宮 |
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所在地 | 静岡県賀茂郡西伊豆町一色868 |
社格 | 静岡県神社庁神社等級 十四等級神社(昭和五十六年七月一日) |
御祭神 | 祭神 山神大明神(大山祇大神)山神社合祀神 牛頭天王(素戔嗚尊)天王社 金毘羅大権現(大物主命)金毘羅社 |
神紋 | – |
摂末社 | 金毘羅権現 天王社 |
情報源 | |
訪問記 | 訪問日: 2016/11/23 資料には記載があったけれど、地図には記載がなくどこにあるんだろうかと以前から探していた場所。 伊豆半島ジオパークの「仁科層群の枕状溶岩、岩脈」に向かっていたところ、一色橋を渡ったところで広場に提灯があるのが気になった。夏祭りがあるという事はその付近には神社があるんだろうな。と周囲を見渡すとありましたよ神社。 ジオパークに向かう方向に見て左側。山の斜面に社殿。 社殿前にはフェンスに囲まれた社地があり、車を駐車可能な模様。 綺麗に整備されており、地域の人々に信仰されているのがよくわかります。 階段を登り参拝。 社殿は参拝時に自由に扉を開けて良いようで、鍵はしまっておらず。ご好意に甘えて扉を開けて参拝。 中央に本殿、左右に1宇ずつ、合祀神が鎮座しています。 覆殿の中には、静岡の神社らしく「神社等級認証書」が掲示されています。 「静岡県神社庁神社等級規定 十四等級神社」 一色地区には穂積神社、水神社などもあるはずなんだけど…未だに不明。 小字が見えなくなってしまった今、なかなか難しいですねぇ。 |
御朱印 | なし |
由緒書 | 山神社 西伊豆町一色八六八番地(小字能山)祭神 山神大明神(大山祇大神)山神社合祀神 牛頭天王(素戔嗚尊)天王社 金毘羅大権現(大物主命)金毘羅社 環境 山神社は仁科川にかかる一色橋を渡った一色林道口の能山に位置する。社有地は境内地二一八・〇七坪、後背山林地八畝一三歩を有する。石段の左側に厳として立つ巨樹はムクノキで、古名をクラまたはホコといい、神の座、神の依代とされている。その後方にイヌマキ(アスナロウ)が直立し、古木ゆえ枝葉を下垂している。石段の右側に枝下の高いケンポナシ(ケンプンナシ)がそびえている。昔から霊力のある木、実を食べると、水難から身を護ることができると伝えられている。 縁起 創建紀年は不詳、古老の口碑によれば、一色村の草分け山本伊予守の創建にして、神社入口の宮ノ前家の祖なりといい、一色に山本姓が多いのは、当社創建の祖とかかわりある故という。 延徳三年(一四九一)北条早雲が伊豆を平定したとき大田子の小松城主山本太郎左衛門尉は、北条に仕え地頭となり、一色所領七十貫文を受けている。 最古の山神棟札は慶長十五年(一六一〇)で 日本国中東海道伊豆州仁科庄一色村氏子共并堀坂村 孫左衛門祢宜於本神以供養儀式者也 奉再興山神御寳殿之前破依之祈及十カ年者也 依之氏子達合歓進祈願成就皆令満足各々子孫繁 栄五願圓満息災延命至者也 于時慶長十五年庚戌年閏二月吉日 本願 山本源兵衛、他四名(解読不能) 棟札に見られる山神社の祭神名は、再建時の慶長十五年から元禄四年(一六九二)までは、山神、山神大明神、社名を山神宮としている。 往古には山に神宿る自然信仰があり、山神は水をもたらす田の神・糧をもたらす神、自然の脅威から免れたい神頼みの風習があったと思われる。 山神宮の祢宜は堀坂村の金刺左衛門・孫衛門・孫右衛門が奉仕している事は注目される。 宝暦十二年(一七六二)から安政五年までは、神仏習合の思想により山神を山王権現、社名を山王宮としている。 山王宮の奉仕者は大泉院・最勝寺の修験者が明治維新まで社僧をつとめている。宝暦十二年の再建時に、一色法雲寺十世鳳州教和尚は「山王権現中興造営記」のなかで、「此ノ 時年老ノ者語リ伝ヘテ云当所山王権現ノ来歴ヲ尋ヅヌルニ五百年前ハ仁科郷中ノ鎮守イズレモ沢田一村ニ宮居在スト云所謂ル沢田ハ一郷ノ吉■ノ如キ者カ其ノ後村里ノ氏神村里毎ニ之ヲ勧請奉 ルト見ヘタリ時ニ此ノ山王モ此ノ一色ノ邑へ勧請在リト云イ伝ヘタリ惜イ哉其ノ年暦ヲ記シ置カザルナリ」と書いている。 願主は山本文之右衛門方昭(大屋屋敷)氏子中である。この年、寛永二十一年(一六四四)造立の天神社殿を再建している。今屋号天神前の背戸に鎮座している。 天明五年(一七八五)に氏子惣村中により山王権現立像の御神体を奉納している。棟札には御腹籠守古来霊体、慈覚大師作と記している。神仏一体の権現信仰によるものである。 天保十二年(一八四一)山王宮を再建、願主は山本源左衛門、組頭須田次良左衛門、百姓代山本長吉、祢宜山本藤八、別当護国院最勝寺。 明治九年の地租改正絵図(一色紙家の山本鶴衛ら三名の調査)に、山王宮を日吉社を記している。 大正十二年の本殿修繕棟札には、祭神を大山祇大神としている。明治の神仏分離、国家宗祀により神名の変更がなされたと思われる。大正九年奉納の宮幟には大山祇命と書かれている。 平成四年、本殿老朽化のため、氏子惣中により再建している。山神社の棟札は一七枚ある。 合祀神 ①金毘羅権現は本殿内の左側に祀られている。棟札は四枚あり、慶応元年(一八六五)山本文之右衛門(大屋屋敷)ら十五名が、農蚕隆昌・木炭殖産を祈願して、現屋号ヤドの背戸に建立した。明治十三年の再建時に山神社境内地に遷座し、昭和二十四年に祠が老朽化したので、山神社本殿内に併祀しれた。 ②天王社は本殿内の右側に祀られている。津島神社氷室神主家の手代が頒布した神札四枚があり、牛頭天王疫病禦御立札あるいは津島神社御祓大麻とある。幟(縦九二センチメートル、巾三〇センチメートル)に、奉納牛頭天王、万延二年(一八六一)山本氏と記されている。 |
社名 | 津島神社 |
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所在地 | 静岡県賀茂郡松崎町岩科南側1199 |
社格 | 静岡県神社庁神社等級規定十一等級 |
御祭神 | 素戔嗚尊(津島神社) 八王子(若宮権現) |
神紋 | – |
摂末社 | 秋葉神社 稲荷神社 |
情報源 | 松崎町史資料編 第一集 神社・寺院編 |
訪問記 | 訪問日: 2017/05/01 |
御朱印 | – |
由緒書 | 祭神 素戔嗚尊(津島神社) 八王子(若宮権現)由緒 創立年月が不詳。中村の集落から東の段への登り道の直線約一〇 〇メートルは、昭和五〇年代までは立派な石畳となっていた。ここ は古くから「宮坂」と呼ばれ、かつての島津神社の参道と言われて いる。このように、社殿はもとは岩科川をはさんで現在地の北、天 王片の地にあったが、水害で山崩れにあい移転したと言い伝えられ ている。この伝承に関連していると考えられるのが寛文四年(一六 六四)の棟札であるが、ここには「修理」と記されていて、遷宮に ついての記載はない。水害は「峯村大海波涛涌く」とか「江水逆流 す」などとの記録から、寛文二年の西日本大地震による津波とも考え られるが、この地震による津波が伊豆西海岸を襲ったという記録は 見あたらない。一方、若宮権現の同年九月の棟札によれば、暴風雨あるい は山津波の可能性もあながち否定できない。現本殿は、文化一三年 (一八一六)大工、初代石田半兵衛らによるものである。特徴 津島神社(向かって右)と若宮権現(向かって左)の二殿相殿 例祭日 七月一五日前後の日曜日 従来は七月一五日に本祭りを行っていたが、近年になってあらた められた。 |
Traditional Japanese Life