「社格」カテゴリーアーカイブ

[東京都文京区] 駒込天祖神社

社名駒込天祖神社(こまごめてんそじんじゃ)
駒込神明宮
所在地
朝日氷川神社

東京都文京区本駒込3-40-1
社格村社
駒込村総鎮守
御祭神天照大御神(あまてらすおおみかみ)

宇迦御魂命 (うかのみたまのみこと) – 鎮火稲荷神社
淤母陀流神(おもだるのかみ) – 榊神社
阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ) – 榊神社
須佐之男命(すさのおのみこと) – 須賀神社
天手力男命(あめのたぢからおのみこと) – 戸隠熱田神社
倭健命(やまとたけるのみこと) – 戸隠熱田神社

神紋花菱紋
摂末社鎮火稲荷神社(ちんかいなりじんじゃ)
三社合祭社(さんしゃごうさいしゃ) – 榊神社(さかきじんじゃ) : 須賀神社(すがじんじゃ) : 戸隠熱田神社(とがくしあつたじんじゃ)
情報源文京区 天祖神社(てんそじんじゃ)
訪問記訪問日: 2017/08/19

駒込駅より徒歩範囲。都道455線より入った場所に鎮座。
ここ、目指してくる様な状況でなければ、存在自体も気がつかなかったかも…。

ちなみに駐車スペースはなく、また路上駐車ができる様な道路上の余裕もありません。
近隣に幾らかのコインパーキングがあるので、車の場合はコインパーキングを利用するのが便利かもしれません。

住宅街の一角、細い路地の入り組んだ地域だけに、ちょっと狭苦しい感じがするけれど、境内に入ってしまうと、いかにも神域という空気が感じられます。

社頭から…まず、社号標を右手に見ながら、神明鳥居をくぐると境内。
境内は木々が茂り、いい雰囲気です。
参道を進むと三社合祭社、稲荷神社。そして、狛犬。
狛犬はなかなかに迫力がある子達。

拝殿横には社務所があり、そこで御朱印がいただけます。
駒込富士神社の御朱印もこちらでいただくことができるので、天祖神社にお参りする前に駒込富士登山をしてからというのもいいでしょう。駒込富士神社までは徒歩でも10分ほど。

御朱印あり(300円) – 社務所にて:書き置きの場合あり
由緒書天祖神社

江戸時代、駒込の氏神として、神明さまと呼ばれ、里人に親しまれてきた。社伝によると、文治5年(1189)源頼朝が奥羽征伐(藤原泰衡追討)の途中、この地に立ち寄り、夢のお告げで、松の枝に大麻(伊勢神宮のおふだ)がかかっているのを見つけた。頼朝は、討伐のよい前触れと喜び、この地に神明(天照大神)を祭ったのが、この神社の起源と言われる。社殿の様式は、神明造り。
大麻のかかっていた大木は、神木として崇められ、さしわたし4尺(12m)もある大木と伝えられている。(『江戸砂子』から)
その後、宮守もなく神木の根元に小さな祠を残すだけとなったが、1650年頃、堀丹後守利直によって再興された。神木は、その後枯れたという。
社殿の裏に、都立駒込病院あたりにあった「鷹匠組」の寄進名が刻まれた石柱が、いまも残る。

ー郷土愛をはぐくむ 文化財ー
東京都文京区教育委員会 昭和63年3月

[埼玉県朝霞市] 氷川神社

社名氷川神社(ひかわじんじゃ)
所在地
氷川神社

埼玉県朝霞市溝沼6-23-1
社格村社
御祭神
神紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2017/06/10
御朱印
由緒書氷川神社 御由緒

 

□ 御縁起(歴史)

 

かつては当社を「じるいね様」と呼ぶ古老がしばしばあったように、明治四十一年八月八日までは当社は地類神社と称していた。「風土記稿」溝沼村の項には、その沿革について「地類権現社 除地五畝、村の東にあり、社は一間に一間半、南の向ふ、祭神詳ならず、寛文の頃(一六六一-七三)村民畑を耕すとて、地類権現と彫づけし石を得たり、時の地頭中山勘三郎、此由を聞て社を立てんと思けるに、此地を古より稲荷山と号せしかば、社地のあとならんとて、社地と定め、この権現を勧請せりと云伝ふ、村内泉蔵寺の持」と記しており、創建の経緯をうかがうことができる。一方「郡村誌」では、社名は地類神社、祭神は稲田姫命となっていることから、当社は、豊かな実りをもたらす地霊を祀った社として信仰されていたものと推測される。
現在、当社の本殿の中には、「風土記稿」に伝えられる石はなく、代わりに一七基の金幣が祀られている。地類神社から氷川神社へ改称した際の理由は定かではないが、明治四十年に字泉水の無格社氷川神社など地内の神社八社を合祀したことを契機に、村社にふさわしい社名ということで武蔵一宮に倣ったものであろう。十七基の金幣の各々には社名と元鎮座地の字名が記されているが、その中に地類神社と記したものはなく、代わりに氷川神社と記したものが他より大きいのは、そうした事情を物語るものと推測される。

 

□ 御祭神と御神徳

 

・ 稲田姫命・・・五穀豊穣、厄除け

 

□ 御祭日

 

・元旦祭(一月一日)  ・新年祭(二月初午)
・例大祭(四月十八日) ・新穀祭(十一月二十三日)

[東京都千代田区] 太田姫稲荷神社

社名太田姫稲荷神社(おおたひめいなりじんじゃ)
一口稲荷神社(いもあらいいなりじんじゃ)
所在地
太田姫稲荷神社

東京都千代田区神田駿河台1丁目2−3
社格村社
御祭神宇迦之御魂神
菅原道真公
徳川家康公
金山彦命
神紋丸に細桔梗紋 – 太田道灌の家紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2017/06/07
御朱印
由緒書太田姫稲荷神社縁起古社名  一口(いもあらい)稲荷神社
御祭神  宇迦之御魂神
菅原道真公
徳川家康公
金山彦命
鎮座地  千代田区神田駿河台一丁目二番地
氏子区域 千代田区神田駿河台一、二、三、丁目
千代田区神田錦町一丁目、小川町二丁目太田姫稲荷神社は 極めて豊かな霊験伝承と
古い由緒をもつ神社であります
「駿河台文化史」(昭和十年神田史跡研究会)によると当神社の縁起は九世紀に始まります
詩才を白楽天に比されるほどの詩人参議小野篁(おののたかむら)が承和六年はじめ
伯耆国(ほうきのくに=鳥取県)名和港を出港してまもなく海が大そう荒れ狂い身の
危険を感じたため 篁は正装をして船の舳に座り熱心に普門品(ふもんぼん=観音経)を
唱えていると 白髪の老翁が波上に現れて「荒波から命を守つやるが疱瘡(天然痘=
大流行し治療法がなく非常に恐れられていた)を患えば一命が危ない われは
太田姫の命である わが像を常にまつれば この病にかかる事はないであろう」と告げ
波間に姿を消した そのお告げを護り自ら翁の像を刻み 護持していた のちに山城国
(京都府)の南にある一口の里に神社を祝い祭った
江戸の開祖として知られる太田資長朝臣(後の道灌)の最愛の姫君が思い疱瘡にかかり
絶望の中 人伝に一口稲荷神社の故事を聞き急使をつかわせ祈願 使者は祈祷の一枝と
幣を授かり帰ると 十直の病が癒えた資長朝臣は崇敬の念篤く城内本丸に一社建立し
姫君と共に深く敬拝した ある時この城の鬼門を守るべしとの神託があり 鬼門に移して
太田姫稲荷大明神と奉唱するようになった 長禄元年(一四五七年)のことである
慶長八年(一六〇三)八月 徳川家康公が江戸城へ入られた後 慶長十一年の江戸城
大改築の際 城内より西丸の鬼門にあたる神田駿河台東側に移されこの坂を一口坂(いも
あらいざか 後に鈴木淡路守の屋敷が出来たので淡路坂ともいう)と呼ばれた その後
代々将軍が崇拝し 修理造営は徳川家が行ったと伝えられている
明治五年(一八七二)神社制度により神職司掌とする
例祭日は毎年四月十八日と定められ 後に五月第二土曜日となる
大正十二年(一九二三)関東大震災で類焼 御神体のみ無事に湯島天神に避難する
大正十四年(一九二五)仮社殿が落成
昭和三年(一九二八)氏子各位の寄進により 本社殿 神楽殿 御水舎 神輿庫 社務所
鳥居等新築される
昭和六年(一九三一)御茶ノ水駅 両国駅間の総武線建設のため社地大半を収用され
鉄道省より換地として 現在の地を神社敷地に指定 一切の建築物をそのまま移転
して今日に至る

[埼玉県秩父市] 三峰神社

社名三峰神社(みつみねじんじゃ)
所在地
三峰神社

埼玉県秩父市三峰298−1
社格県社
別表神社
秩父三社(三峰神社・秩父神社・宝登山神社)
御祭神主祭神
伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)
伊弉册尊 (いざなみのみこと)
配祀神
造化三神 – 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)
天照大神 (あまてらすおおかみ)
神紋菖蒲菱(あやめびし)
摂末社
情報源秩父 三峯神社
訪問記訪問日: 2017/05/28

埼玉県の神社というと、思い浮かぶ神社はいくつかあるけれど。
その中でも代表する神社と言えばこの三峰神社。

埼玉県内の神社事情をざっと見ると、県東部の利根川や江戸川付近に点在する「久伊豆神社」。
県中央部から江戸にかけて席巻する「氷川神社」。
特に氷川神社は一大勢力だから、埼玉=氷川神社みたいにも思い込みやすいけれど。
三峰神社の広がりはそれらに負けない広がりがあるように思える。
県外に行っても、そこそこに三峰神社や三峰講の名前を見かけるし、実は、全国的に見れば、氷川神社以上に埼玉を代表する神社なんじゃないかと思ってる。

そんなに思っておきながら…。
三峰神社は秩父の山奥で、とにかくアクセスも悪いし、何かのついでに訪問しようなんて感じには絶対になれない場所。
まぁ、せいぜい、登山客がついでにというくらいだろう。
埼玉の神社をめぐり始めて結構立つけれど、行こう行こうと思いつつも行けなかった。
ようやくの訪問。

三峰神社と言えば、どうしても思い浮かぶものは2つ。
眷属と鳥居。

神社というと、狛犬、もしくは狐を思い浮かべるけれど。三峰神社というと犬。正確にはオオカミ。
濃霧で道に迷った日本武尊の道案内した、その勇猛、忠実さから、使いとされたという事とのこと。
その様な関係からなのでしょうか。境内には犬を連れた参拝者が多数。
他の神社であれば、鳥居の内、境内へ犬を連れて入ることは常識として行ってはいけない事の一つ。と言われることも多い。故にこの風景はちょっとした驚きに満ちている。気にしない人にとっては、見過ごしてしまうような光景ではあるけれど。

まぁ、そういう話をすると、神社だって狛”犬”がいるじゃないかと言われることもあるけれど。
狛犬は、いろいろな本なども読んだけれど。想像上の生物であり、犬ではないというのが大勢の意見。
元々は獅子であり、大陸より伝来する過程で今の形に落ち着いたんだとか。
人によっては、源流をたどればスフィンクスも同流であるとかないとか。
まぁ、あたっているのかないのかなんてのは、それこそ神様しかわからないわけですが。

そして、三ツ鳥居。これは明神鳥居の両脇に、小規模な2つの鳥居を組み合わせた様なもので、あまり見かけない様式の鳥居。
Wikipediaによると、そのくぐり方は、茅野輪くぐりの様に八の字を描きながらくぐるものらしい。

とりあえず、駐車場渋滞で長いこと待たされた後、広い境内を進む。
坂を上ると見たかった三ツ鳥居。そして眷属のオオカミ。
そこから歩く。
昔から信仰が厚い神社だけあって、奉納品の多さが目に付く。
うーん、江戸の頃の講での賑わいって、今の賑わい以上だったんだろうなぁ。と想像してしまうくらい。

順路に沿って参拝。

社殿前の鳥居。扁額が凝ったことになっていますね。
龍が絡みつく扁額。

そして参拝。

脇には境内社。
これがすごい。
ともかくずらーっと並んでいる。
たとえとしては適正ではないけれど、空港で見かけたガチャガチャが並ぶ風景の様に立ち並んだ境内社。
順番にご挨拶していると、本当に日が暮れてしまいそう。そして、お賽銭の小銭がいくらあっても足りなさそうな雰囲気。
これだけ並ぶのはなかなかにない光景。

そこから山を下りつつ、日本武尊の巨大な像などに参拝しつつ駐車場に戻って一巡。

本来なら、ここから登山道に入り奥の院へと進みたいところだけれど、今回は小さい同行者もいるので…。山道を進み最初の鳥居までで引き返す。
実は、この鳥居まではここまでは正直言ってその辺を歩く時と同じ靴でOK。ここから先に行くのであれば、オーバーかと思われるかもしれないが、そこそこのライトトレッキング程度の装備は最低限必要って事なので、今回はあきらめることに。山は舐めたら痛い目に合うというのは幼少期の登山経験で痛いほど理解しているので無理はしない事にしてる。神様に挨拶に行って帰ってこなかったなんてのは洒落にもならんので。

まぁ、参拝の感想は…ともかく人・人・人。
到着が10時ごろだったけれど、次に来るときは少なくとも2時間は早く来るようにしないと…せっかくの荘厳な感じもマイルドヤンキー風味の参拝客に紛れてだと…ちょっと残念な感じになってしまう。

御朱印あり(社務所にて)
由緒書

[静岡県三島市] 三嶋大社

社名三島神社(みしまじんじゃ)
三嶋大社(みしまたいしゃ)
所在地
三嶋大社

静岡県三島市大宮町二丁目1番5号
社格延喜式内(名神大社)
伊豆国一宮
伊豆国総社
官幣大社
別表神社
御祭神三嶋大社 Webサイトによる
大山祇命(おおやまつみのみこと)
積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)
御二柱の神を総じて三嶋大明神(みしまだいみょうじん)と称しています。

静岡縣神社志 による
祭神 正殿一座 玉籤入彦厳之事代神(たまくしいりひこいづのことしろぬしのみこと)
或云、積羽八重事代主命(つみはやゑえことしろぬしのみこと)
或云、都波八重事代主神(つはやゑえことしろぬしのみこと)
相殿四座 阿波神(あはのはみ) 或云、阿波咩命(あはめのみこと)
伊古奈比咩命(いこなひめのみこと) 又御名 三島溝樴姫(みしまみそくひひめのみこと)
一座神名未詳(社傳、物忌奈命(ものいみなのみこと))
一座神名未詳(社傳、大山祇命)

祭神を事代主とする主張は江戸時代後期の平田篤胤によるものであり、割と最近の話である。
江戸期までは大山祇命とされていた。
ただし、近年では伊豆諸島の神、ミシマ(御島)の神(三嶋大明神)であるとする資料も多く見られる。
神紋折敷に三文字紋
五七の桐紋
摂末社
情報源三嶋大社
訪問記訪問日: 2017/05/06

伊豆地域の神社を目指して参拝旅行をする関係で、三島もよく来るには来るけれど。
いつも混雑している三島大社はなかなか訪問する機会もなく。
その昔は仕事の関係でもよく来ていたこともあり、年に数回は詣でていたんだけれど。
かれこれ20年ぶりくらいの訪問。

社頭右側に神社の駐車場(有料)があるので、そこに車を止めて参拝。

崇拝篤い神社だけあって、参拝するたびに感嘆である。
ともかく広い境内で、鹿苑もある。

社頭にある灯篭にある「折敷に三文字」の神紋を確認しつつ、境内へ。
かなり大きな境内で、立派な神池が出迎えてくれます。
そしていたるところに十六八重表菊。
神池をみながら境内を進むと神門、その先には舞殿があり、その真裏に社殿。
社殿もかなりの豪勢さ。

社伝によると、災害により深刻な被害を受けることもあったが、その度に再建してきたという。
しかも迅速な再建で、各地からの信仰の篤さを感じさせる。

ともかく、いつ来ても大勢の人でにぎわっている。
一度でいいから、落ち着いてゆっくり参拝してみたいものだ。

御朱印あり
由緒書

[静岡県松崎町] 仲神社

社名仲神社
所在地
仲神社

静岡県賀茂郡松崎町那賀64
社格静岡県神社庁神社等級規定 十四等級神社
村社
延喜式内(仲神社:論社)
延喜式内(伊那上神社:論社)
延喜式内(仲大歳神社:論社)
御祭神
神紋
摂末社
情報源仲神社 – 静岡県神社庁
訪問記訪問日: 2017/05/05

所用で松崎町を通過する用事があったので、以前から気になっていた「仲神社」を目指す。
この地域は道が入り組んでいて細い上、生垣などがあったりして見通しも悪い。
迷いに迷って、ようやく探し出した。迷ったおかげでどうやってたどり着いたかすらよくわからない。
たぶんだが、車で向かうのであれば、「那賀生活改善センター」あたりを目標にするとよいと思う。

入り組んだ細い道を進んできた感覚からすると、集落の中にぽかっと空いた空き地的境内。
広くもないが、集落の集会を行ったりお祭りを行うのは事足りそうなサイズである。
境内内には「那賀生活改善センター」があり、近隣住民の集会所等として利用されているようだ。

道路から見ると敷地に斜め方向に立つ白色の明神鳥居。
鳥居に向かって左が「那賀生活改善センター」、右が「拝殿」である。

拝殿は神社建築というより、どちらかというと商家の建物…といった様相。
扉には鍵はかかっておらず、自由に開けて参拝する形式の様です。

ひとまず、扉を開けて参拝。

拝殿内には、静岡の神社らしく等級が掲示されており、本社は静岡県神社庁神社等級規定十一等級とのこと。

御朱印
由緒書

[静岡県下田市] 波夜多麻和氣命神社

社名波夜多麻和氣命神社(はやたまわきのみことじんじゃ)
波夜多麻和氣神社
相玉天神宮(旧社名)
所在地
波夜多麻和氣命神社

静岡県下田市相玉8
社格村社(明治六年)
従四位上 おほゐの明神(伊豆国神階帳)
波夜多麻和氣命神社(延喜式内:論社)
佐伎多麻比咩命神社(延喜式内:論社)
御祭神波夜多麻和氣命(はやたまわけのみこと)
神紋
摂末社
情報源波夜多麻和気命神社 – 静岡県神社庁
訪問記訪問日: 2017/05/05

稲生沢川の南側、並走する15号線を伊豆急行稲梓駅より西方面に進む。
南側の丘の上に社が見える。

台輪鳥居、社号標の先に急峻な石段。
その先に社殿。

社号標には「式内波夜多麻和氣神社」の陰刻。
ただ、神社庁などの情報によると…社名は「波夜多麻和氣命神社」で「命」の一文字が抜けている模様である。
ただ、目と鼻の先にあるバス停の名称は天神前。
本来の社号は天神社なのか?と帰宅後にネットで簡単に検索。

例えば伊豆下田市相玉の式内:波夜多麻和氣命神社は土地では「天神さん」として祀られてきており(波夜多麻和氣命を祀るという記録はない)、神社前のバス停名も「天神前」である。しかしここは「菅原道真公を祀る」という伝があったわけでもない。まことに大雑把に「天神さんの社」だったのだ。伊豆は伊豆三嶋大神の御子神たちが複雑な名前であることから一般に膾炙しなく、単に若宮さんとか天神さんとか呼ばれてよく分からなくなってしまった例が多い。

神社巡りの方法|四座 読|龍学 -dragonology-より

なるほど、バス停が天神前だからと言って、過去は菅公を祀っていたものを…みたいな安直な想定はよろしくないという事なのだろう。
伊豆神社は奥深い。

石段を登り、参拝。

鳥居は綺麗にペンキが塗られているところを見ると、地域の信仰は残っているんだろうと思う。
それでも、社殿はかなり痛んでおり、維持の難しさを感じさせる様相。
神社の維持というのは現代ではかなり難しいんであろうと思う。

参拝後、振り返ると周囲の美しい景色。

御朱印
由緒書

[静岡県西伊豆町] 神明神社(浮島)

社名神明神社
所在地
神明神社

静岡県賀茂郡西伊豆町仁科三〇三五番地の一(浮島)
旧表記:仁科村濱字富洞(南豆風土誌新南豆風土誌
社格延喜式内(布刀主若玉命神社:比定)
無格社
御祭神布刀主若玉命(南豆風土誌新南豆風土誌西伊豆町誌 資料第一集 神社・寺院並びに棟札編による)
布刀若玉比売命(村社加列願 による)
布刀主若玉姫命
神紋
摂末社
情報源南豆風土誌
新南豆風土誌
西伊豆町誌 資料第一集 神社・寺院並びに棟札編
訪問記訪問日: 2017/05/05

以前より、「浮島(ふとう)には神社がある。」という情報は得ていて、一度、詣でてみたいと思って早6年。
何度も浮島海岸には行っているが、一度も社の様なものは見かけたことがなく、正直、いったいどこにあるのだろうという状況であった。
玄松子の記憶さんのところに神明神社とあり訪問ん記録が記載されている。
その後、むく犬のブログさんの【無狛犬】西伊豆町浮島 浮島神社のエントリーなども発見。
やはり、この小さな浮島エリアのどこかに潜んでいるんだろうなぁ。

ムズムズと考えながら情報を検索するも、これ以上の情報もなし。
結論。やはり足で稼ぐしかなかろう。

「しおさいの湯」に行った際に、番頭をしていた初老の男性に神社の事を聞くことからスタート。
地元の人ならと期待を込めたが、「神社なんて聞いたことがないな。俺は田子の人間だから良く知らない。」と…田子、山を挟んで隣のエリア。
やはりそのくらいの距離の人ですら知らないのであれば、どうにもならんなぁ。と思いつつ、もうやけになって路地を歩きだす。

結局、場所は分かった。
「しおさいの湯」を背に真ん前の山裾である。

大屋荘の脇の路地を入り、大屋荘の真裏にある道を浜に下る。
道と言っても自転車が精一杯の「路地」。
ゼンリンの住宅地図でも見れば乗っているんだろうけれど、普段使っているネット上の地図には道の存在すら記載されないレベル。
下りながら山を覗くと、これまた細い路地の先に鳥居が見える。
ようやく発見である。

ちょろちょろと水の流れる小川を超え、境内へ。
石積の上に社殿。
社殿は大きくはないがきれいに整えられており、信仰が続いているのがわかる。

延喜式内の布刀主若玉命神社に比定される古社。
観光資源にでもなりそうな気もするんだが、そこは、観光のメインストリートではなく、生活のメインストリートを通り、さらに地域住民に近い路地の奥。やはり地域としてはそっとしておいてほしい領域なのかもしれません。

御朱印
由緒書西伊豆町誌 資料第一集 神社・寺院並びに棟札編

神明神社(延喜式内・無格社)

西伊豆町仁科三〇三五番地の一(浮島)

祭神 布刀主若玉命

環境

旧国道「浮島」のバス停から小さな谷川に沿って四〇
〇メートル余り下り、民宿の角を右に折れると間もなく
小さな鳥居が見える。
ここが旧式内社「神明神社」である。社の前には、先
程の谷川が流れている。幅二メートル程の川には以前船
板がかけてあったが、現在はコンクリート造りの小さな
太鼓橋に替っていた。不思議なことに、ここの川底だけ
が岩盤で、一か所深く抉られたところがある。前にはこ
の淵で、よくウナギが捕れたという。
橋を渡った左側の袂に、直径二〇センチメートルくら
いのウバメガシがある。幹の片面に長く大きな傷跡が残
っている。これは明治の火事の名残である。
『増訂豆州志稿』に「祠域狭隘極テ衰頽ニ属ス」とあ
るように、今も小さな社であるが、かつては式内社であっ
た。この辺りを昔から御庵と呼び、五輪さんの伝説やま
た瓶棺の出土などを考え合わせると、改めてこの土地の
歴史のロマンを感じさせる。縁起
創立年月は不詳である。『延喜式神名帳』に「布刀主若
玉姫神社」とある式内社である。また『伊豆国神階帳』に
「従四位上二浦谷玉姫ノ明神」とあるが当社に当てられる。
ただし『増訂豆州志稿』や『大日本史神祇志」に「谷
は若の誤字」であるとされる。
祭神の「布刀主若玉命」は、神話の「天岩屋物語(後
記)』に出てくる姫神である。
また鎮座地の浮島の地名は祭神の布刀、二浦から富戸、
富洞から現在の浮島となったものである。また、この付
近の小字が御庵となっていることなどを考えると、この
神社との古いつながりを感じさせる。
神社の神明は姫神を神明と尊称することが多いという
ことから土地の人は昔から「神明さん」と呼び親しんで
きたものである。明治十六年五月の村社加列願いには
式社「富洞神社」とあるが、これは格式を高めるためと
思われる。同十九年の古社寺調には、無格社「神明社」
となっている。
なお昭和二十八年の『神社明細帳』には「神明神社」
として登録された。
明治十九年の調書に「此処ハ人家只六七軒ニシテ祠モ
甚小ナレトモ相伝ヘテ式社ト云極メテ古祠ナル由」とあ
るように古くから、式内社と伝えられ尊崇されていた社
である。また棟札写しとして「奉再建神明宮慶長十三年
(一六〇八)正月再建願主氏子中」とあるが、この棟札
は現存しない。
明治二十八年五月古社寺調に「今ハ社域狭隘ニシテ唯
小祠ヲ存スル耳ミ、再三海嘯ノ為、流レテ旧記ヲ失フト
云フ」とあるように記録はほとんど残されていない。
当社の社格は無格社とあるがこれは、明治四年以降の
神社規則による国が所管する官幣、国幣の大中小の官社
と府県社・郷社・村社・無格社の社格をいう。無格社を
社格なしと考えるのは間違いで無格社も「無格社」とい
う社格である。ただしこれは昭和二十一年廃止された。

由緒書村社加列願

伊豆国那賀郡浜村字浮島

式内 富洞神社

一、祭神 布刀若玉比売命
一、由緒 延喜式神名帳ニ載スル処ノ官社ニシテ其証ハ
去ル明治五年旧韮山県ニ於テ編相成候伊豆国
式社考証又同八年旧足柄県ニ於テ編進相成候
伊豆国式社未定神社考証書又其後旧教部省ニ
於テ編纂相成候纂定神名■等ニ判然記載有之

一、社殿間数 間口壱間半 奥行壱間
一、境内反別 三畝十歩
一、氏子戸数 三百四十三戸
右者由緒ノ通リ式内ニシテ村民信仰ニ因リ従来修
理維持罷在候処社格未定ニ付今般更ニ村社加列願
上弥増尊信仕度人民協議ノ上鹿絵図相添情願仕候
間御聞届被下候様奉願上候也
那賀郡浜村佐波神社祠官 間野斎宮
同村氏子惣代      山本良吉
同           加藤兼吉
明治十六年五月

[静岡県下田市] 両神社

社名両神社(りょうじんじゃ)
兩神社
三島大明神(旧社名)
所在地
両神社

静岡県下田市須崎838
社格佐伎多麻比咩命神社(延喜式内:論社)
穂都佐氣命神社(延喜式内:論社)
御祭神伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
伊邪那美命(いざなみのみこと)
神紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2017/05/04

須崎の漁港の入り口付近、床屋の脇の路地に入り、すぐを左へ。
そこが神社への参道。
すぐに靖国鳥居が見えてくる。

手前には手水舎。
階段を登り鳥居をくぐると…参道の幅からは想像しにくい境内の広さ。
社殿もなかなか立派。
手入れもされており信仰が残っているのがよくわかる。

社殿右脇には境内社。
詳細は不明だが、大きな鏡が置かれていた。

御朱印
由緒書

[静岡県南伊豆町] 石室神社(石廊崎)

社名石室神社(いろうじんじゃ、いしむろじんじゃ)
所在地
石室神社

静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎125
社格延喜式内社
伊豆国神階帳「従四位下いわらいの明神」
無格社
御祭神伊波例命(いわれのみこと)
神紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2017/05/02
御朱印あり(300円) / 御朱印帳あり
由緒書