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[静岡県西伊豆町] 神明神社(浮島)

社名神明神社
所在地
神明神社

静岡県賀茂郡西伊豆町仁科三〇三五番地の一(浮島)
旧表記:仁科村濱字富洞(南豆風土誌新南豆風土誌
社格延喜式内(布刀主若玉命神社:比定)
無格社
御祭神布刀主若玉命(南豆風土誌新南豆風土誌西伊豆町誌 資料第一集 神社・寺院並びに棟札編による)
布刀若玉比売命(村社加列願 による)
布刀主若玉姫命
神紋
摂末社
情報源南豆風土誌
新南豆風土誌
西伊豆町誌 資料第一集 神社・寺院並びに棟札編
訪問記訪問日: 2017/05/05

以前より、「浮島(ふとう)には神社がある。」という情報は得ていて、一度、詣でてみたいと思って早6年。
何度も浮島海岸には行っているが、一度も社の様なものは見かけたことがなく、正直、いったいどこにあるのだろうという状況であった。
玄松子の記憶さんのところに神明神社とあり訪問ん記録が記載されている。
その後、むく犬のブログさんの【無狛犬】西伊豆町浮島 浮島神社のエントリーなども発見。
やはり、この小さな浮島エリアのどこかに潜んでいるんだろうなぁ。

ムズムズと考えながら情報を検索するも、これ以上の情報もなし。
結論。やはり足で稼ぐしかなかろう。

「しおさいの湯」に行った際に、番頭をしていた初老の男性に神社の事を聞くことからスタート。
地元の人ならと期待を込めたが、「神社なんて聞いたことがないな。俺は田子の人間だから良く知らない。」と…田子、山を挟んで隣のエリア。
やはりそのくらいの距離の人ですら知らないのであれば、どうにもならんなぁ。と思いつつ、もうやけになって路地を歩きだす。

結局、場所は分かった。
「しおさいの湯」を背に真ん前の山裾である。

大屋荘の脇の路地を入り、大屋荘の真裏にある道を浜に下る。
道と言っても自転車が精一杯の「路地」。
ゼンリンの住宅地図でも見れば乗っているんだろうけれど、普段使っているネット上の地図には道の存在すら記載されないレベル。
下りながら山を覗くと、これまた細い路地の先に鳥居が見える。
ようやく発見である。

ちょろちょろと水の流れる小川を超え、境内へ。
石積の上に社殿。
社殿は大きくはないがきれいに整えられており、信仰が続いているのがわかる。

延喜式内の布刀主若玉命神社に比定される古社。
観光資源にでもなりそうな気もするんだが、そこは、観光のメインストリートではなく、生活のメインストリートを通り、さらに地域住民に近い路地の奥。やはり地域としてはそっとしておいてほしい領域なのかもしれません。

御朱印
由緒書西伊豆町誌 資料第一集 神社・寺院並びに棟札編

神明神社(延喜式内・無格社)

西伊豆町仁科三〇三五番地の一(浮島)

祭神 布刀主若玉命

環境

旧国道「浮島」のバス停から小さな谷川に沿って四〇
〇メートル余り下り、民宿の角を右に折れると間もなく
小さな鳥居が見える。
ここが旧式内社「神明神社」である。社の前には、先
程の谷川が流れている。幅二メートル程の川には以前船
板がかけてあったが、現在はコンクリート造りの小さな
太鼓橋に替っていた。不思議なことに、ここの川底だけ
が岩盤で、一か所深く抉られたところがある。前にはこ
の淵で、よくウナギが捕れたという。
橋を渡った左側の袂に、直径二〇センチメートルくら
いのウバメガシがある。幹の片面に長く大きな傷跡が残
っている。これは明治の火事の名残である。
『増訂豆州志稿』に「祠域狭隘極テ衰頽ニ属ス」とあ
るように、今も小さな社であるが、かつては式内社であっ
た。この辺りを昔から御庵と呼び、五輪さんの伝説やま
た瓶棺の出土などを考え合わせると、改めてこの土地の
歴史のロマンを感じさせる。縁起
創立年月は不詳である。『延喜式神名帳』に「布刀主若
玉姫神社」とある式内社である。また『伊豆国神階帳』に
「従四位上二浦谷玉姫ノ明神」とあるが当社に当てられる。
ただし『増訂豆州志稿』や『大日本史神祇志」に「谷
は若の誤字」であるとされる。
祭神の「布刀主若玉命」は、神話の「天岩屋物語(後
記)』に出てくる姫神である。
また鎮座地の浮島の地名は祭神の布刀、二浦から富戸、
富洞から現在の浮島となったものである。また、この付
近の小字が御庵となっていることなどを考えると、この
神社との古いつながりを感じさせる。
神社の神明は姫神を神明と尊称することが多いという
ことから土地の人は昔から「神明さん」と呼び親しんで
きたものである。明治十六年五月の村社加列願いには
式社「富洞神社」とあるが、これは格式を高めるためと
思われる。同十九年の古社寺調には、無格社「神明社」
となっている。
なお昭和二十八年の『神社明細帳』には「神明神社」
として登録された。
明治十九年の調書に「此処ハ人家只六七軒ニシテ祠モ
甚小ナレトモ相伝ヘテ式社ト云極メテ古祠ナル由」とあ
るように古くから、式内社と伝えられ尊崇されていた社
である。また棟札写しとして「奉再建神明宮慶長十三年
(一六〇八)正月再建願主氏子中」とあるが、この棟札
は現存しない。
明治二十八年五月古社寺調に「今ハ社域狭隘ニシテ唯
小祠ヲ存スル耳ミ、再三海嘯ノ為、流レテ旧記ヲ失フト
云フ」とあるように記録はほとんど残されていない。
当社の社格は無格社とあるがこれは、明治四年以降の
神社規則による国が所管する官幣、国幣の大中小の官社
と府県社・郷社・村社・無格社の社格をいう。無格社を
社格なしと考えるのは間違いで無格社も「無格社」とい
う社格である。ただしこれは昭和二十一年廃止された。

由緒書村社加列願

伊豆国那賀郡浜村字浮島

式内 富洞神社

一、祭神 布刀若玉比売命
一、由緒 延喜式神名帳ニ載スル処ノ官社ニシテ其証ハ
去ル明治五年旧韮山県ニ於テ編相成候伊豆国
式社考証又同八年旧足柄県ニ於テ編進相成候
伊豆国式社未定神社考証書又其後旧教部省ニ
於テ編纂相成候纂定神名■等ニ判然記載有之

一、社殿間数 間口壱間半 奥行壱間
一、境内反別 三畝十歩
一、氏子戸数 三百四十三戸
右者由緒ノ通リ式内ニシテ村民信仰ニ因リ従来修
理維持罷在候処社格未定ニ付今般更ニ村社加列願
上弥増尊信仕度人民協議ノ上鹿絵図相添情願仕候
間御聞届被下候様奉願上候也
那賀郡浜村佐波神社祠官 間野斎宮
同村氏子惣代      山本良吉
同           加藤兼吉
明治十六年五月