「鎮座地」カテゴリーアーカイブ

[埼玉県川口市] 横曾根神社

社名横曾根神社(よこそねじんじゃ)
所在地
横曾根神社

埼玉県川口市南町1丁目15−10
社格
御祭神素盞嗚尊(氷川大神)
応神天皇(八幡大神)
稲荷大神
神紋菊花心に三つ巴紋
摂末社
情報源横曾根神社 | 埼玉県の神社
訪問記訪問日: 2016/11/23

川口駅からだと徒歩でもアクセスできるけど、やっぱりバスかなぁ、と悩む距離に鎮座。
狭い社地の為か、鉄筋コンクリートの総二階建ての建物、正面の鳥居をくぐるとすぐに階段。そこを登ると拝殿。

階段を登って参拝。

社務所は一階。

一応、御朱印をもらったというブログ等も見た事があるので、同行者は御朱印をいただけるか確認に。
社務所にて確認すると御朱印はないとの事。御朱印ブームでもあるので、心ない来訪者とトラブルでもあったのかもしれないけれど、ちょっと対応に難ありだったそうだ。まぁ、神様の前なわけだし、どちらも気持ちよく参拝したいものです。

御朱印なし
由緒書横曾根神社 御由緒

□御縁起(歴史)
御祭神 氷川大神・八幡大神・稲荷大神を主神とし、
氏子区域に本居を構える氏子の人達の、祖先の神々をも合わせまつる。

横曽根神社じゃ度々の水害によって、古記録等忘失して御創建年代は定かではないが、「風土記稿」によれば応永年間(約六三〇年以前)の創建と伝えられ「村内の鎮守なり」とあり、本殿内に安置する木彫りの御神像五体は室町期のものといわれている。江戸時代種々の行事の際に使用された大般若経(六百巻)は延享元年(約二六〇年前)の銘があり、現在神前に安置されている。

当神社は、昭和八年 川口町・横曽根村・青木村・南平柳村の一町三村が合併して川口市となる以前における、旧横曽根村(現在の南町、宮町、原町、仲町一、二、三丁目仁志町一、二丁目・北町・緑町・並木町一、二、三、四、五丁目・飯塚一、二、三丁目)の総鎮守、産須那の社として、往古より数百年にわたり村人の氏子崇敬者の厚い崇敬を集めて参りました。無論、川口市となりましても、横曽根神社の氏子区域は変わる事なく、従来通りと、神社本庁にも認められており、飯塚地区を除いた、横曽根地区・西川口地区・西地区・並木地区の各連合町会の総鎮守として、地域の発展安全・子孫繁栄にその御神徳も顕著な産須那の神であります。

江戸時代、文化三年生まれの学者六人部是香はその著「産須那社古伝抄」に

「先づその地の産須那の神に、慇懃に奉仕して、其の余暇には、他所の霊験をも仰ぐべし。かりそめにも。我が産須那の神をさし置きて。他所の利益を仰ぎ奉らむは。我が主君を等閑にして他処に参るが如く。不当なる にあらずや。然れば狭少の処に御坐とも。其の恩徳を忽にすべからず。
若し当処の神。咎めて祟り給はば。いかに頼み奉るとも。他処の神更に助け給ふべからず。餘社の祟りは、吾が産須那の神の恵給はば。宥め給はむ。他処の社といへども。疎略に為べからずといへども。取別け先づ第一に。其地其の地の産須那の社を。大切に為ずんば有るべからず。」

と説かれております通り、氏子区域とそこに住む氏子の人達を第一に御守護下さる広く厚き御神徳に感謝し、尚往先の御加護を祈念して、神社の維持・神事の執行を子々孫々に伝えるべく、初詣・初宮参・七五三詣・厄除け・自動車清祓い、各種の安全祈願祭等神前の御祈祷・地鎮祭や各種の清祓い等の外祭も、産須那・氏神様で御受け致します。

□ 御祭神 ・素盞嗚尊 ・応神天皇
□ 御祭日
・ 元旦祭(一月一日) ・祈年祭(二月十七日) ・例大祭(十月二十日)

[埼玉県川越市] 薬師神社(幸町)

社名薬師神社(やくしじんじゃ)
時の鐘薬師神社
川越薬師如来

社殿
所在地
薬師神社

埼玉県川越市幸町15-8
社格無格社
御祭神大己貴命
少彦名命
神紋
摂末社稲荷社
情報源
訪問記訪問日: 2016/10/!5

川越の観光の中心、時の鐘。
川越のシンボルと言えるこの場所。
実は神社である。

しかも、かなり面白い経歴である。
もともとは「瑞光山 医王院 常蓮寺」というお寺で、『新編武蔵風土記稿』ものるお寺であった。
明治期の神仏分離により常蓮寺は廃寺になり、薬師堂は「薬師神社」となった。
祭神は大己貴命・少彦名命となっているが、薬師如来像が祀られており、その当時を偲ばせる。

こういうのを見るにつけ、明治政府の行った行為は日本の文化を破壊しまくったんだなと思う。
日本でも文化大革命を彷彿とさせる文化破壊があって、その片鱗がこういう所で見える。

御朱印
由緒書薬師神社の由来について

当神社は以前瑞光山医王院常蓮寺
という寺であったが明治維新の折
薬師神社となった。明治二十六年
川越大火により時の鐘と共に焼失
翌年再建された。御本尊は薬師如来
の立像で高さ六十糎行基菩薩の作
という。五穀豊穣・家運隆昌・特に
病気平癒の御利益があり眼病には
著しい効果がある。尚、向かって
右奥の稲荷社は出世 開運 合格に
著しいご利益がある。

[群馬県桐生市] 織姫神社(織姫町)

社名織姫神社(おりひめじんじゃ)
所在地
織姫神社

群馬県桐生市織姫町1番1号
社格(屋敷神)
御祭神天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)
白瀧姫命
神紋
摂末社稲荷社?
情報源織姫神社 – 桐生市織姫自治会
織姫神社を記念公園に、地元3区準備進める | ウェブ桐生タイムス
訪問記訪問日: 2016/10/07

桐生市市民文化会館の一角に鎮座。
下草などはかられ、きれいに整備されているが、神社としてはなにか物足りなさを感じる境内。

境内には一宇の境内社。特に社名もないが、神紋から稲荷社であろうと推測。

後に謂れを調べてみたところ、もともと本地にあった日本織物会社が自社の繁栄を祈願し、1895(明治28)年、日本織物会社が川内村(現川内町)の白瀧神社から勧請し、敷地内に建立した屋敷神を由来とする神社で、本地がのちに桐生市に譲渡されたのを境に、近隣の自治会が管理を受託する形で運営がなされていたとのこと。想像するに、政教分離の原則から、神社を市が管理する事ができず、自治会に投げたという事なのでしょう。その自治体も過疎の影響で維持ができず、数年前に抜魂式をしたとのこと。

この物足りなさはそのせいなのかもしれません。
抜魂式を行った現在、この建築物を神社と呼んでよいのかどうかというものはあるけれど、やはり、それまでの住民の願いを受け止めてきたこの建築物は、やはり未だに神社であるのだろうと思う。

祭られている白瀧姫命。この白瀧姫命には伝承が残されていて、「桓武天皇の時代、上野国山田郡の男が京都に宮仕えに出た。その際、白瀧姫に恋をした。天皇の前で見事な和歌を披露し、白瀧姫を連れて帰ることを認めてもらう。」と、いう事で桐生に連れてこられた姫らしい。その姫は、桐生に移り住んだのちに、絹織物の技術を地域に伝承したというもの。現在の桐生織は白瀧姫より受け継がれたものなのだと。
白瀧姫は、死後に桐生市川内町の白瀧神社に埋葬され機織神として祀られたという。

御朱印
由緒書

[群馬県桐生市] 雷電神社(錦町)

社名雷電神社(らいでんじんじゃ)
桐生雷電神社
所在地
雷電神社

群馬県桐生市錦町1丁目3−6
社格村社(昭和18年6月)
御祭神火雷神(ほのいかづちのみこと)
神紋
摂末社不明2宇
(八坂神社?)
(八幡神社?)
情報源
訪問記訪問日: 2016/10/06

通りに面した朱色の巨大な明神鳥居。
その鳥居を抜けると、一般的なサイズの明神鳥居。
一の鳥居のサイズが大きかった分、標準サイズの二の鳥居が小さく見える。

鳥居をくぐると社殿。
社殿前には岡崎型の狛犬が一対。

社殿も立派でかなりの大きさ。
また境内にあった瑞鳳殿なる建物もやはりいいサイズ。
この瑞鳳殿はなにかよくわからなかったけれど、おそらくは神楽殿でしょう。

社殿右には境内社。2宇あるが、詳細は不明。
ネットで見ると八幡神社となっているが、地図で確認すると八坂神社。

御朱印掲示あり
由緒書雷電神社の由来

雷電神社は雷除け、雨乞い、五穀豊穣の神として荒戸五ケ村
が雷電山に祭る。永禄二年(一五五九)である。
常見隠岐守が上原に移った時に屋敷神として勧請した。
天和二年(一六八二)である。
その後最勝寺(現在は錦町)が別当寺として祭祀を預かる。
(最勝寺は常見隠岐守の開基と云い、神社に仕え、管理運営を
行っていた。)
亨保、元文の頃、寺と村方とで神社について紛議が起こり、
一時的に村方持ちになったが元文四年(一七三九)上野東叡山
から下書を賜って最勝寺が別当となり明治維新まで継続した。
明治時代より雷電神社はその所在地の鎮守様として、周辺の
崇敬者を氏子として祭祀管理運営されて、春秋二回の祭礼が
行われてきた。
太平洋戦争時は第3区区民が氏子となり、昭和五十九年に
老朽化した本殿、大鳥居等改修し現在にいたる。

祭神 火雷神(ほのいかづちのみこと)

平成二十一年

[群馬県桐生市] 美和神社(宮本町)

社名美和神社(みわじんじゃ)
美和神社 社頭
所在地
美和神社

群馬県桐生市宮本町二丁目1番1号
社格延喜式内
郷社
御祭神大物主櫛甕玉命 – 大物奇甕玉命(おおものぬしくしみかたまのみこと)
素盞嗚命 – 建速須佐之男命(たけすさのおのみこと)※ 建速須佐之男命は旧八坂神社の祭神であり、美和社の祭神は大物奇甕玉命。【琴平神社】
大物主命(おおものぬしのみこと)
【松尾神社】
大山咋命(おおやまくいのみこと)
【八意思兼神社】
思兼命 – 思慮分別の神
【西宮神社】
蛭子大神
神紋三つ巴
摂末社八意思兼神社 – 思兼神社とも。由緒不明。
機神神社
松尾神社 – 京都市左京嵐山北松尾山鎮座 元官幣大社 松尾神社 より勧請
金毘羅神社
西宮神社 – 兵庫県西宮市 西宮神社から分霊勧請
情報源関東一社 桐生西宮神社
桐生市史 別巻
訪問記訪問日: 2016/10/06
桐生駅より北東に約1.2km。駅を北側に出て道なりに進むこと15分ほど。左手に鳥居が見えてくる。「上野国十二社 三輪大明神」「上野国十二社 郷社 美和神社」社頭には「上野国十二社」と示されており、上野国十二社十之宮の美和神社であることが示されています。ざっとネットで検索したところ、もともとは三輪大明神と称していたところ、明治期に美和神社と改めたとのこと。「明神鳥居」をくぐり、境内へ。正面には美和神社の拝殿。
左側には神楽殿、境内社の八意思兼神社、機神神社、神輿倉。
右には松尾神社、金毘羅神社、西宮神社。もちろん、狛犬も一対。よく見かけるタイプ。狛犬は詳しく無いけれど、「江戸狛犬」というタイプの様です。右は口を開け、左は口を閉じています。松尾神社は美和神社のすぐ脇、独立して「明神鳥居」があり、一段高い位置に覆殿。金毘羅神社は松尾神社の隣。やはりこちらも独立して「明神鳥居」。ただ、鳥居の扁額には「琴平神社」。社殿は金毘羅神社。その奥に西宮神社。境内社ではありますが、規模的には神社が2社並んでいる様な感じ。
むしろ、こちらの神社の方が大きい様にも見えます。

[静岡県南伊豆町] 三島神社(妻良)

社名三島神社(みしまじんじゃ)
三島宮
所在地
三島神社

静岡県賀茂郡南伊豆町妻良828ー1
社格延喜式内(大津往命神社)
延喜式内(阿米都加多比咩命神社)
村社
御祭神大津往命
神紋
摂末社
情報源三島神社 – 静岡県神社庁
訪問記訪問日: 2016/08/26
南伊豆から西伊豆に移動中。妻良の坂を下る途中に発見。
境内入口には台輪鳥居、鳥居扁額には「三島宮」。
この三島宮の文字が芸術的。神社の文字は業界有名人なんかの達筆なものが多いけれど、ここのはそういうのではなく、ほんと、近代芸術的である。
鳥居も鳥居で近代芸術的で、鳥居の笠木は黒く、笠木下の島木は朱色。柱は薄いピンク色。、根巻は銅の緑。なんともごちゃごちゃな色センス。これは何かしら意味のある色なのか、はたまた氏子の趣味なのか。扁額のみならず鳥居自体も面白い。その脇にちょこんと鎮座する狛犬はちょっと傷みが激しい感じである。
足部分が欠損したのか石膏のようなもので上塗り。境内に入ると拝殿。でも、ここは伊豆なので伊豆方式で脇から裏手に。
石段を登り覆殿へ。
階段脇には狛犬。こちらは新しいようで元気いっぱいである。覆殿脇には、前任と思われる傷みの相当に激しい狛犬、それに不明の祠がいくらか見える。

南豆風土誌によれば、正中二年の社記があるとのこと。

御朱印
由緒書北条水軍妻良衆の力石

重量280Kg
戦国時代、伊豆を平定した北条早雲の傘下に入った妻良衆は村田一之助を頭領に仰ぎ、北条家中でも屈指の水軍であった。
彼らは、北条氏治世100年の中で伊豆衆と呼ばれ、その剛勇ぶりはつとに有名であった。
その勇士達が、平素身体鍛錬のためにかつぎ、差し上げたのがこの石で、その名も力石と名づけられ今日まで伝えられている。
特に、北条氏と豊臣氏の戦雲急な頃、妻良沖にて敵の斥候一人を捕らえ、北条氏直から感状を贈られ、その武勇を賞賛されたのであるが、この人などは、この石をいとも軽々と差し上げたと伝えられている。
昭和60年5月

[静岡県南伊豆町] 三島神社(蝶ケ野)

社名三島神社(みしまじんじゃ)
所在地
三島神社

静岡県賀茂郡南伊豆町蝶ケ野270
社格延喜式内(多祁伊志豆伎命神社)
村社
御祭神事代主命
神紋
摂末社
情報源三島神社 – 静岡県神社庁
訪問記訪問日: 2016/08/26

地図には神社があるが、どの道を進んで到達したらいいのか。イマイチ分かりにくく、何度か近所まで来たことはあったが達することができなかった神社。
川沿いに進む道を手当たり次第に進み、ようやく。

川沿いの石垣の上に小さな境内。白色の八幡鳥居。
その先に朱色の社殿。
どうも伊豆の神社の社殿は自分のイメージする神社とは形が異なるので違和感がある。
鳥居がなければ小さい民家というか、物置というか、そういう印象の社殿が多い。
ここも似たような感じ。

南豆風土誌の、三坂村蝶ケ野字川久保の三島神社と記載されている部分が当社であると思われる。
それであれば、創建など詳細は不詳であるが、祭神は事代主命となるようである。

御朱印
由緒書

[静岡県南伊豆町] 三島神社(下小野)

社名三島神社(みしまじんじゃ)
所在地
三島神社

静岡県賀茂郡南伊豆町下小野166
社格延喜式内(阿米都加多比咩神社)
郷社
神社等級認証書
静岡県神社庁神社等級(十一等級神社)
御祭神阿米都加多比咩命(あめつかたひめのみこと)
誉田別命
神紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2016/08/26

すこし角度が急な石段を登ると金属製の明神鳥居。
石垣で高くなった場所に境内。

社殿前には一対の狛犬が鎮座。

社殿右手は広場になっており
ゲートボール場として利用されていると思われる。

社殿脇には鎮魂碑。

延喜式内の阿米都加多比咩神社に比定されるらしい。


南豆風土誌にある、

神社名:三島明神
所在地:南上村下小字宮ノ前
創立年月:建武二年再建
祭神:阿米都加多比咩命
社格:郷社
境内地:七七一坪、官有地第一種

が該当すると思われる。

建武二年とあるので、1336年に再建されたということか。

御朱印
由緒書

[静岡県松崎町] 八幡神社(八木山)

社名八幡神社(はちまんじんじゃ)
所在地
八幡神社

静岡県賀茂郡松崎町岩科南側1623
社格無格社
御祭神應神天皇(おうじんてんのう)
神紋
摂末社三峰神社
情報源八幡神社 – 静岡県神社庁松崎町史資料編
訪問記訪問日: 2016/08/26
南伊豆方面に進むために道を走らせる。
途中、一宇の神社。
本当に偶然の出会いで、急いで車を止めて参拝。バス停には八木山公民館の文字。
この地域の小字が八木山なのかな?
そんなことを思いつつ、そのあたりは後で調べるとして…社地は山間部の数少ない平地と斜面をうまく組み合わされている感じ。
古いが近隣の方に大切にされているのでしょう。履き清められた境内は気持ち良い空間になっています。
まぁ、目立つのはそちらというより、立派な両部鳥居、それ以上にその両脇にそびえる巨木も存在感。拝殿は施錠されており…ここも西伊豆方式か?と裏手に回るも覆殿には回れず。
西伊豆地域だと、拝殿は鍵がかかっているけれど、脇から覆殿に回って、本殿を目の前に参拝って大盤振る舞いが多いけれど。
残念ながらここはちょっと違うみたい。
表に回って、拝殿前から参拝。南豆風土誌で調べてみると、岩科村岩科字八木山の八幡神社が当社に該当すると思われる。
祭神は応神天皇、創立年月には寶暦十一年改造とあり、1761年よりも昔からこの地に鎮座しているようだ。松崎町は…合併等に伴って、もともとあった地名、小字をことごとく捨て去ってしまっていて、外来者からすると本当に分かりにくい。ここも昔は八木山だったんだろうけれど、今じゃ「岩科南側(いわしななんそく)」か。
地元の人と話すと今でも小字の地名で読んでいたりするから話が通じなかったりする。

いや、西伊豆町なんかも同じような感じだけれど、例えば、哆胡神社ももともとは合の浦だが、いまや大字に数字だけだ。目の前のバス停のみが小字を残している。でも、地元の人と話をすると、合の浦とか月の浦だとかという地名で話をするから、聞いていて混乱する。
合併というのはいろいろな理由もあるし、便利な事も多いけれど、地名に関しては歴史を捨てる行為に見えて仕方がない。

後に松崎町史資料編を手に入れて確認。

本殿は両扉で八幡宮と若宮八幡宮を合祀しているとのこと。
また造立等は詳らかではないが、記録によると、宝暦十一年(1761)の棟札があるとの事。

御朱印
由緒書

[静岡県西伊豆町] 高根神社(宇久須)

社名高根神社(たかねじんじゃ)
所在地
高根神社

静岡県賀茂郡西伊豆町宇久須
社格
御祭神阿遅鉏高日子根神
神紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2016/08/24
国道136号線、西伊豆 クリスタルビューホテルと松ヶ坂トンネル間。見過ごしてしまいそうな路地の先に社。
地図上に神社として描かれている以上に情報もなく、詳細不明。調べてみると、個人ブログなどの情報だと個人持ちの社で、株式会社丸協組という会社が祀っているとのこと。ただ、同時に株式会社丸協組の民事再生法の適用申請なんて記事も出てくる。現時点では管理不在なのかな?
そう思いつつ向かう。境内はきれいに手入れされているとは言えないまでも荒れている感じではなく、信仰が残っているよう、注連縄も新しいものがかかっていた。石段を登ると金属製の神明鳥居。それに一対の狛犬。
由緒がわかるものは何一つ掲示されてはいなかったが、社殿内に祭神が阿遅鉏高日子根神であるとだけ記されていた。
当初は静岡県浜松市の高根神社を勧請したものではないかと推測していたけれど、祭神が保食神と阿遅鉏高日子根神と異なることもあり、まったく別な様相である。むしろ、埼玉県熊谷市の高根神社は「味鋤高彦根神、伊邪那岐命、伊邪那美命」とのこともあり、そういう方向から調べたほうがいいのかもしれない。

いつもの参考書、南豆風土誌新南豆風土誌共に記載なし。

御朱印
由緒書