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[神紋・社紋・家紋] 星紋 一覧

星紋 は、一般には妙見菩薩信仰から始まったと考えられている。
妙見とは「優れた視力」を表し、古来から北極星や北斗七星を妙見としてあがめていた。武士においては、妙見信仰と平将門の伝承を合わせ妙見を武士団の弓箭神とする動きもあり、武士の間で家紋として用いられることとなった。

銀星ぎんぼし

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三つ星みつぼし

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中陰三つ星

丸に三つ星(まるにみつぼし)

石持ち地抜き三つ星

雪輪に三つ星

松浦星(まつらぼし)

徳山三つ星(とくやまみつぼし)

一文字三つ星(いちもんじみつほし)
府中三つ星(ふちゅうみつぼし)

一文字三つ星(いちもんじみつほし)

三つ星に一つ引き

丸に三つ星に一つ引き

一文字三つ星(いちもんじみつぼし)
長門三つ星(ながとみつぼし)

丸に長門三つ星(まるにながとみつぼし)

陰長門三つ星

二文字に三つ星(にもじにみつぼし)

重ね三つ星(かさねみつぼし)

渡辺星(わたなべほし)
三つ星に一文字(みつぼしにいちもんじ)

陰の渡辺星

丸に渡辺星

五瓜に渡辺星

渡辺星に山形

井桁に渡辺星

繋ぎ剣三つ星

剣三つ星(けんみつぼし)

丸に剣三つ星

雪輪に三つ星(ゆきわにみつぼし)

繋ぎ三つ星(つなぎみつぼし)

三つ割剣三つ星(みつわりけんみつぼし)

四つ星(よつぼし)

四つ重ね星(よつかさねぼし)

剣四つ星

五つ星(いつつぼし)

五つ重ね星(いつつかさねぼし)

六曜(ろくよう)
六つ星(むつぼし)

離れ六つ星(はなれむつぼし)
離れ六曜(はなれろくよう)

丸に六曜(まるにろくよう)

六つ重ね星(むつかさねぼし)

七曜(しちよう)
七つ星(ななつぼし)

七曜に木の字(しちようにきのじ)

丸に七つ星

陰七曜

亀甲に七つ星

陰陽七つ星(いんようななつぼし)

八曜(はちよう)
八つ星(やつぼし)

八曜に月(はちようにつき)
八つ星に月(やつぼしにつき)

角八曜(かくはちよう)

九曜くよう

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細川九曜(ほそかわくよう)

石持地抜九曜(こくもちじぬきくよう)

丸に九曜(まるにくよう)

割九曜わりくよう

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結び九曜(むすびくよう)

九曜巴紋

蛇の目九曜じゃのめくよう

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角九曜(かくくよう)

抜け九曜ぬけくようもん

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九曜菱(くようびし)
菱九曜(ひしくよう)

十曜(じゅうよう)

十一曜(じゅういちよう)

月に星(つきにほし)

月に北斗星(つきにほしほくとせい)

真向き月に星

星付き鍬形

丸に星片喰

五角井筒に星

星付き分銅ほしつきふんどう

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星付き七宝

三つ盛り亀甲に三つ星

星付き七宝に花角

総陰の熨斗輪に三つ星

総陰星付き七宝に花菱

月に三つ星

月に星

真向き月に星

三光紋

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[埼玉県朝霞市] 氷川神社

社名氷川神社(ひかわじんじゃ)
所在地
氷川神社

埼玉県朝霞市溝沼6-23-1
社格村社
御祭神
神紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2017/06/10
御朱印
由緒書氷川神社 御由緒

 

□ 御縁起(歴史)

 

かつては当社を「じるいね様」と呼ぶ古老がしばしばあったように、明治四十一年八月八日までは当社は地類神社と称していた。「風土記稿」溝沼村の項には、その沿革について「地類権現社 除地五畝、村の東にあり、社は一間に一間半、南の向ふ、祭神詳ならず、寛文の頃(一六六一-七三)村民畑を耕すとて、地類権現と彫づけし石を得たり、時の地頭中山勘三郎、此由を聞て社を立てんと思けるに、此地を古より稲荷山と号せしかば、社地のあとならんとて、社地と定め、この権現を勧請せりと云伝ふ、村内泉蔵寺の持」と記しており、創建の経緯をうかがうことができる。一方「郡村誌」では、社名は地類神社、祭神は稲田姫命となっていることから、当社は、豊かな実りをもたらす地霊を祀った社として信仰されていたものと推測される。
現在、当社の本殿の中には、「風土記稿」に伝えられる石はなく、代わりに一七基の金幣が祀られている。地類神社から氷川神社へ改称した際の理由は定かではないが、明治四十年に字泉水の無格社氷川神社など地内の神社八社を合祀したことを契機に、村社にふさわしい社名ということで武蔵一宮に倣ったものであろう。十七基の金幣の各々には社名と元鎮座地の字名が記されているが、その中に地類神社と記したものはなく、代わりに氷川神社と記したものが他より大きいのは、そうした事情を物語るものと推測される。

 

□ 御祭神と御神徳

 

・ 稲田姫命・・・五穀豊穣、厄除け

 

□ 御祭日

 

・元旦祭(一月一日)  ・新年祭(二月初午)
・例大祭(四月十八日) ・新穀祭(十一月二十三日)

[埼玉県志木市] 神明神社

社名神明神社(しんめいじんじゃ)
所在地
<br /> 神明神社

埼玉県志木市柏町5-18
社格
御祭神
神紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2017/06/10
御朱印
由緒書神明神社

伊勢の皇太神宮を分祀した神社。一般に皇太神宮を分祀したものを神明社と呼び、全国で一万五千社を数えるといわれています。
この神社は、元和二年(一六一六)に山本家が伊勢信仰のために創建したもので、その後文化文政期(十九世紀初頭)に尾崎家が宅地と社を買い受け、明治九年には字大塚へ移譲しましたが、昭和五年頃まで尾崎家で祭典を行っていました。
その後、大正初期の東武鉄道路線工事により、現在地に移設され祀られています。

平成七年一月三十日

志木市教育委員会

[東京都千代田区] 太田姫稲荷神社

社名太田姫稲荷神社(おおたひめいなりじんじゃ)
一口稲荷神社(いもあらいいなりじんじゃ)
所在地
太田姫稲荷神社

東京都千代田区神田駿河台1丁目2−3
社格村社
御祭神宇迦之御魂神
菅原道真公
徳川家康公
金山彦命
神紋丸に細桔梗紋 – 太田道灌の家紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2017/06/07
御朱印
由緒書太田姫稲荷神社縁起古社名  一口(いもあらい)稲荷神社
御祭神  宇迦之御魂神
菅原道真公
徳川家康公
金山彦命
鎮座地  千代田区神田駿河台一丁目二番地
氏子区域 千代田区神田駿河台一、二、三、丁目
千代田区神田錦町一丁目、小川町二丁目太田姫稲荷神社は 極めて豊かな霊験伝承と
古い由緒をもつ神社であります
「駿河台文化史」(昭和十年神田史跡研究会)によると当神社の縁起は九世紀に始まります
詩才を白楽天に比されるほどの詩人参議小野篁(おののたかむら)が承和六年はじめ
伯耆国(ほうきのくに=鳥取県)名和港を出港してまもなく海が大そう荒れ狂い身の
危険を感じたため 篁は正装をして船の舳に座り熱心に普門品(ふもんぼん=観音経)を
唱えていると 白髪の老翁が波上に現れて「荒波から命を守つやるが疱瘡(天然痘=
大流行し治療法がなく非常に恐れられていた)を患えば一命が危ない われは
太田姫の命である わが像を常にまつれば この病にかかる事はないであろう」と告げ
波間に姿を消した そのお告げを護り自ら翁の像を刻み 護持していた のちに山城国
(京都府)の南にある一口の里に神社を祝い祭った
江戸の開祖として知られる太田資長朝臣(後の道灌)の最愛の姫君が思い疱瘡にかかり
絶望の中 人伝に一口稲荷神社の故事を聞き急使をつかわせ祈願 使者は祈祷の一枝と
幣を授かり帰ると 十直の病が癒えた資長朝臣は崇敬の念篤く城内本丸に一社建立し
姫君と共に深く敬拝した ある時この城の鬼門を守るべしとの神託があり 鬼門に移して
太田姫稲荷大明神と奉唱するようになった 長禄元年(一四五七年)のことである
慶長八年(一六〇三)八月 徳川家康公が江戸城へ入られた後 慶長十一年の江戸城
大改築の際 城内より西丸の鬼門にあたる神田駿河台東側に移されこの坂を一口坂(いも
あらいざか 後に鈴木淡路守の屋敷が出来たので淡路坂ともいう)と呼ばれた その後
代々将軍が崇拝し 修理造営は徳川家が行ったと伝えられている
明治五年(一八七二)神社制度により神職司掌とする
例祭日は毎年四月十八日と定められ 後に五月第二土曜日となる
大正十二年(一九二三)関東大震災で類焼 御神体のみ無事に湯島天神に避難する
大正十四年(一九二五)仮社殿が落成
昭和三年(一九二八)氏子各位の寄進により 本社殿 神楽殿 御水舎 神輿庫 社務所
鳥居等新築される
昭和六年(一九三一)御茶ノ水駅 両国駅間の総武線建設のため社地大半を収用され
鉄道省より換地として 現在の地を神社敷地に指定 一切の建築物をそのまま移転
して今日に至る

[埼玉県草加市] 氷川神社

社名氷川神社
所在地
氷川神社

埼玉県草加市小山2丁目6
社格
御祭神
神紋
摂末社
情報源草加市史調査報告書 第三集 草加の社寺
訪問記訪問日: 2017/06/04

ちょうど西松屋の陰になる場所に神社。
集会所の傍。

小ぶりな拝殿の中には一間社流造の本殿。
社殿裏には一体のお地蔵さん、それに稲荷社・菅原社の碑、馬頭観音。

御朱印
由緒書草加市史調査報告書 第三集 草加の社寺

氷川神社

小山町「風稿」に「氷川社、村の鎮守なり、村持にて社傍に庵を作り、僧を置て守らしむ、末社に天神社、疱瘡社」とある。また「郡誌」に「境内に天神社、稲荷社の末社あり」と誌す。現在は「菅原神社 稲荷社」と刻む石柱(明治十三年九月吉日建立)があるのみで社殿は構えていたものであろう。

本殿 桁行一・四尺、梁行〇・八尺、向拝の出 〇・八尺の小規模な建物で、屋根は板葺の目板打ちとする一間社流造である。身舎は円柱に腰長押、内法長押をめぐらし、柱上にて直接桁をうけて、妻飾に束を立てる。向拝柱は几帳面どりの方柱で、頭貫を水引き虹梁に換え、端に象形の彫刻木鼻を用い、柱上に実肘木つき出三斗を組み、虹梁と軒桁の間に彫刻物を備え、軒を二軒としている。洋式細部の特色からみて、18世紀中葉の造立と推定される。

[埼玉県秩父市] 柞祖霊社

社名柞祖霊社(ははそそれいしゃ)
所在地
柞祖霊社

埼玉県秩父市番場町2
社格
御祭神
神紋
摂末社秩父神社の兼務社
情報源
訪問記訪問日: 2017/05/28

秩父神社に参拝した時、秩父まつり会館の裏手に鳥居があるのを発見。
道路の向かいだしと、参拝。

由緒書きをみると、近年になって創建された祖霊社とのこと。
建物は移築のようであるが、ぱっと見はかなり新しい新築にしか見えない。

柞の字は当初読めず…由緒書きにあるルビでようやく読めた。
これで「ははそ」と読むようである。

Wikipediaによると

ハハソ…コナラなど、ブナ科コナラ属の総称

とあり、木の種類を表しているとのこと。
由緒書きを見ると、鎮守の杜からの名前であるとあるので、このあたりにはコナラの木が繁茂していたのであろう。

御朱印
由緒書『柞 祖霊社』御鎮座の由来

本社は、ご祭神として幽冥の大神をはじめ、当社の神葬祭をもって奉斎する各ご家庭代々
の御祖達のご分霊を共に招き祀って、末長く鎮め奉る祖霊社として新たに創建されました。
ご社殿につきまいては、信濃国安曇野(現・長野県安曇野市)に鎮座の古社、旧国幣
小社・穂高神社が本年五月九日に斎行された式年造替遷座祭に伴う旧神殿遺構を用材
に譲り受け、そのご神縁を蒙りつつ然るべき改修をほどこして建立したものであります。
なお本社のご社名は、当社の社叢に古く伝わる名称「柞の杜」に鎮座の故であります。
因みに本社ご創建にちきましては、去る平成十七年帰幽の故千嶋文曹翁命が生前に
奉納された建設基金をはじめ、当社大総代、立正佼成会秩父教会ご有志ほか篤志の皆さまによるご浄財あっての成就と、ここに銘記してご芳志のほど衷心より御礼申し上げます。

世々の祖のみかげわするな世々の祖はおのが氏神おのが家の神 本居宣長大人詠歌

吾らが神道におきましては、亡き人びとの御霊を末長く現世に祀りつづけることこそ
後生の安心と心得て、ご遺族をはじめ縁者の方々と共に鎮魂の神祭をご奉仕しております。
幸いに本社の創建が叶いましたからには、各ご家庭それぞれの御霊屋奉斎に併せて、
当本社のご霊前鎮祭をも行く末永くご奉仕いたすことを謹んでお誓い申し上げます。

平成二十一年八月吉日

秩父神社 宮司 園田 稔 謹誌

[埼玉県秩父市] 御嶽普寛神社

社名御嶽普寛神社(おんたけふかんじんじゃ)
所在地
御嶽普寛神社

埼玉県秩父市大滝944
社格単立神社
御祭神
神紋山丸三
摂末社熊野神社
三峯神社
出世稲荷神社
情報源
訪問記訪問日: 2017/05/28

三峰神社よりの帰り道。
目立つ鳥居を発見。参拝しました。

門はキッチリと閉めてありましたが、掲示によると獣害がひどいための措置で参拝者は開けて入っていいとの事。
お言葉に甘えて参拝。

日が悪かったのか社務所は締まっており、お話等を聞くことはできませんでした。
その為、参拝のみ。
谷に向かって社殿が建ち、その向かいに神楽殿。社殿右側に社務所。
御嶽教の目印である「山丸三」の神紋が大きく掲げられていたのが印象的。

境内社の出世稲荷神社は境内ではなく、門の外に隣接して鎮座。
こういうのも境内社と呼んでいいんだろうか。それとも、この関係でも境外社と呼ぶんだろうか。

後に帰ってから調べたところ、この神社は、御嶽教の中では特別な位置にある様で、御嶽教を創設した普寛の墓所四カ所の一つであり、出生地とされているとの事。
普寛と言えば修験道。その位は知っているけれど。よく考えると修験道ってどんなもんなんだろうか。
修験者のイメージ映像は頭に浮かぶけれど、それ以上の知識がないことに今更気が付く。
日本人に生まれながら、日本の事って、知っているようであまり知らないもんなんだなぁ。
こういうことを切っ掛けにでもして、少しでも調べていかないとなぁ。と思わせてくれる訪問であった。

御朱印情報あり(未確認)
由緒書

[埼玉県秩父市] 三峰神社

社名三峰神社(みつみねじんじゃ)
所在地
三峰神社

埼玉県秩父市三峰298−1
社格県社
別表神社
秩父三社(三峰神社・秩父神社・宝登山神社)
御祭神主祭神
伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)
伊弉册尊 (いざなみのみこと)
配祀神
造化三神 – 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)
天照大神 (あまてらすおおかみ)
神紋菖蒲菱(あやめびし)
摂末社
情報源秩父 三峯神社
訪問記訪問日: 2017/05/28

埼玉県の神社というと、思い浮かぶ神社はいくつかあるけれど。
その中でも代表する神社と言えばこの三峰神社。

埼玉県内の神社事情をざっと見ると、県東部の利根川や江戸川付近に点在する「久伊豆神社」。
県中央部から江戸にかけて席巻する「氷川神社」。
特に氷川神社は一大勢力だから、埼玉=氷川神社みたいにも思い込みやすいけれど。
三峰神社の広がりはそれらに負けない広がりがあるように思える。
県外に行っても、そこそこに三峰神社や三峰講の名前を見かけるし、実は、全国的に見れば、氷川神社以上に埼玉を代表する神社なんじゃないかと思ってる。

そんなに思っておきながら…。
三峰神社は秩父の山奥で、とにかくアクセスも悪いし、何かのついでに訪問しようなんて感じには絶対になれない場所。
まぁ、せいぜい、登山客がついでにというくらいだろう。
埼玉の神社をめぐり始めて結構立つけれど、行こう行こうと思いつつも行けなかった。
ようやくの訪問。

三峰神社と言えば、どうしても思い浮かぶものは2つ。
眷属と鳥居。

神社というと、狛犬、もしくは狐を思い浮かべるけれど。三峰神社というと犬。正確にはオオカミ。
濃霧で道に迷った日本武尊の道案内した、その勇猛、忠実さから、使いとされたという事とのこと。
その様な関係からなのでしょうか。境内には犬を連れた参拝者が多数。
他の神社であれば、鳥居の内、境内へ犬を連れて入ることは常識として行ってはいけない事の一つ。と言われることも多い。故にこの風景はちょっとした驚きに満ちている。気にしない人にとっては、見過ごしてしまうような光景ではあるけれど。

まぁ、そういう話をすると、神社だって狛”犬”がいるじゃないかと言われることもあるけれど。
狛犬は、いろいろな本なども読んだけれど。想像上の生物であり、犬ではないというのが大勢の意見。
元々は獅子であり、大陸より伝来する過程で今の形に落ち着いたんだとか。
人によっては、源流をたどればスフィンクスも同流であるとかないとか。
まぁ、あたっているのかないのかなんてのは、それこそ神様しかわからないわけですが。

そして、三ツ鳥居。これは明神鳥居の両脇に、小規模な2つの鳥居を組み合わせた様なもので、あまり見かけない様式の鳥居。
Wikipediaによると、そのくぐり方は、茅野輪くぐりの様に八の字を描きながらくぐるものらしい。

とりあえず、駐車場渋滞で長いこと待たされた後、広い境内を進む。
坂を上ると見たかった三ツ鳥居。そして眷属のオオカミ。
そこから歩く。
昔から信仰が厚い神社だけあって、奉納品の多さが目に付く。
うーん、江戸の頃の講での賑わいって、今の賑わい以上だったんだろうなぁ。と想像してしまうくらい。

順路に沿って参拝。

社殿前の鳥居。扁額が凝ったことになっていますね。
龍が絡みつく扁額。

そして参拝。

脇には境内社。
これがすごい。
ともかくずらーっと並んでいる。
たとえとしては適正ではないけれど、空港で見かけたガチャガチャが並ぶ風景の様に立ち並んだ境内社。
順番にご挨拶していると、本当に日が暮れてしまいそう。そして、お賽銭の小銭がいくらあっても足りなさそうな雰囲気。
これだけ並ぶのはなかなかにない光景。

そこから山を下りつつ、日本武尊の巨大な像などに参拝しつつ駐車場に戻って一巡。

本来なら、ここから登山道に入り奥の院へと進みたいところだけれど、今回は小さい同行者もいるので…。山道を進み最初の鳥居までで引き返す。
実は、この鳥居まではここまでは正直言ってその辺を歩く時と同じ靴でOK。ここから先に行くのであれば、オーバーかと思われるかもしれないが、そこそこのライトトレッキング程度の装備は最低限必要って事なので、今回はあきらめることに。山は舐めたら痛い目に合うというのは幼少期の登山経験で痛いほど理解しているので無理はしない事にしてる。神様に挨拶に行って帰ってこなかったなんてのは洒落にもならんので。

まぁ、参拝の感想は…ともかく人・人・人。
到着が10時ごろだったけれど、次に来るときは少なくとも2時間は早く来るようにしないと…せっかくの荘厳な感じもマイルドヤンキー風味の参拝客に紛れてだと…ちょっと残念な感じになってしまう。

御朱印あり(社務所にて)
由緒書

[埼玉県川口市] 朝日氷川神社

社名朝日氷川神社
所在地
朝日氷川神社

埼玉県川口市朝日1−3−15
社格
御祭神素盞嗚命
櫛稲田姫命
神紋
摂末社・出世稲荷神社
・須賀神社
・大国神社
情報源朝日氷川神社
訪問記訪問日: 2017/05/07
御朱印あり(500円) – 社務所にて
由緒書朝日氷川神社 御由緒
川口市朝日一ー三ー十五
□ 御縁起(歴史)
当社創建は、天正年中(一五七三〜室町末期)に今の地に再建されたと
あり、約五百年間と推定される。『風土記稿』に、樋爪村(二十九日村)・
十二月田村・前田村・二軒在家村の鎮守とあり、現在の十二月田を含む朝
日町全域となっている。鎮座地は樋爪村の西端にあり、氏子が氷川大神を
拝する時は、西方にある芝川を望むがごとくある。現在、社殿裏手の道路
は、かつての芝川堤防跡である。
御祭神は素盞嗚命、櫛稲田姫命の二柱で、神仏分離まで内陣には聖観音
を奉安していた。また、素盞嗚命を「牛頭天王」として祀る須賀神社が合
祀されている。
『明細帳」によると、明治四十年六月十四日、大字十二月田字大坪にあっ
た村社稲荷社、大字二軒在家字稲荷田の無格社稲荷社が当社に合祀されて
いる。内陣にはこの両社いずれかのものと思われる「正一位稲荷五柱太神」
と墨書された神璽と、高さ二十五センチメートルの自然石がある。
本殿は一間社流造りで、銅板葺きの屋根となっている。拝殿内には川口市
青木の氷川神社の随神門にあった左大臣、右大臣が奉安されている。大正
十二年の関東大震災では社殿が倒壊するも、昭和十三年七月二十五日に再建。
その後老朽化した建物すべてを「平成の大造営」と称して再建し、平成十五
年五月、新社殿・社務所が木の香清しく完成となった。
□ 御祭神と御神徳
・素盞嗚命・・・・厄除招福、厄災消除、病気平癒
・櫛稲田姫命・・・安産、子育て、夫婦和合、五穀豊穣
□ 末社
・出世稲荷神社 ・須賀神社 ・大国神社
□ 御祭日
・春祭り(二月二十五日) ・夏祭り(七月十五日前後の土、日)
・例大祭(十月十五日) ・新嘗祭(十一月二十三日)