社名 | 諏訪神社 |
所在地 | 諏訪神社 千葉県市原市久々津 |
社格 | – |
御祭神 | – |
神紋 | 梶の葉紋 |
摂末社 | 天神神社 |
情報源 | – |
訪問記 | 訪問日: 2017/08/19 |
御朱印 | – |
由緒書(境内社の掲示) | 学問の神天神神社 祭神 菅原道真公平安時代初めの学者、学 問を好み漢詩漢文和歌 にすぐれた才能をもっていた 宇多大皇に厚く信任され 右大臣になり(八九四年) 遣唐使に任命された創建 安政三年七月十三日本照寺三十二世住職深海 上人の創建による 爾来郷民の崇敬をあつ めた |
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[埼玉県川越市] 氷川神社
社名 | 氷川神社(ひかわじんじゃ) |
所在地 | 氷川神社 埼玉県川越市古市場2 |
社格 | – |
御祭神 | – |
神紋 | – |
摂末社 | – |
情報源 | – |
訪問記 | 訪問日: 2017/08/19 |
御朱印 | – |
由緒書 |
[埼玉県ふじみ野市] 白山神社
社名 | 白山神社(はくさんじんじゃ) |
所在地 | 白山神社 埼玉県上福岡市ふじみ野市川崎 |
社格 | – |
御祭神 | – |
神紋 | – |
摂末社 | 稲荷社 八坂社 水天宮 |
情報源 | – |
訪問記 | 訪問日: 2017/08/19 |
御朱印 | – |
由緒書 | 石鳥居由来記 この石鳥居は古典による所謂住吉型である 明治二十四年東京浅草篠原善次郎氏の寄進に依って建立されたものである 蓋し敬神の誠意の表現であろう 当時地方の神社には石の鳥居は極めて少く春秋の社日参の善男善女は石の鳥居を七つ潜ると七難を免れると云ふ巷間の伝説から参詣人で賑わった 偶々大正十二年九月一日関東大震災は地方一帯を襲ひ一瞬にして鳥居の笠木を落としたので修理した その後地盤の弛み等から危険を感ずるに至ったので昭和四十七年一月社殿と共に修理されたその特鳥居の沓石の下から東京浅草新町武蔵屋善次郎天保十五申辰歳二月吉祥日と記された沓石が発掘されたこの沓石の型態等より考察するに此の鳥居は最初木造を前記同人が寄附し明治二十四年腐朽するに及び再度の寄進が現在の住吉型の石の鳥居であることを創造するに難くない今や国を挙げて古代文化の調査研究の必要が叫ばるるの時沓石が語る篠原善次郎氏の奇篤な行為に感謝し併せて敬神崇祖の美徳を讃じ略記を録し之を後世に伝へむとするものである 昭和四十七年十月十五日 文責上福岡市郷土文化研究会長岸澤忠次 崇拝者一同 敬白 |
[埼玉県ふじみ野市] 大井氷川神社
社名 | 大井氷川神社 |
所在地 | 大井氷川神社 埼玉県ふじみ野市大井2丁目4 |
社格 | – |
御祭神 | – |
神紋 | – |
摂末社 | – |
情報源 | – |
訪問記 | 訪問日: 2017/08/12 |
御朱印 | – |
由緒書 |
[埼玉県三芳町] 羽生山稲荷神社
社名 | 羽生山稲荷神社(はぶやまいなりじんじゃ) |
所在地 | 羽生山稲荷神社 埼玉県入間郡三芳町北永井997 |
社格 | – |
御祭神 | – |
神紋 | – |
摂末社 | – |
情報源 | |
訪問記 | 訪問日: 2017/08/12 |
御朱印 | – |
由緒書 | 羽生山稲荷神社 三芳町北永井と大井町亀久保との境界付近、武蔵野の面影を残す平地林(雑木林)が残る県立大井高等学校あたり一帯は羽生山と呼ばれ、その一角に羽生山稲荷神社が祀られている。 平成五年三月 埼玉県 |
[埼玉県川口市] 青木穴守稲荷神社
社名 | 青木穴守稲荷神社 |
所在地 | 青木穴守稲荷神社 埼玉県川口市中青木3丁目9 |
社格 | – |
御祭神 | – |
神紋 | – |
摂末社 | – |
情報源 | – |
訪問記 | 訪問日: 2017/08/12 |
御朱印 | – |
由緒書 |
[埼玉県朝霞市] 氷川神社
社名 | 氷川神社(ひかわじんじゃ) |
所在地 | 氷川神社 埼玉県朝霞市溝沼6-23-1 |
社格 | 村社 |
御祭神 | – |
神紋 | – |
摂末社 | – |
情報源 | – |
訪問記 | 訪問日: 2017/06/10 |
御朱印 | – |
由緒書 | 氷川神社 御由緒
□ 御縁起(歴史)
かつては当社を「じるいね様」と呼ぶ古老がしばしばあったように、明治四十一年八月八日までは当社は地類神社と称していた。「風土記稿」溝沼村の項には、その沿革について「地類権現社 除地五畝、村の東にあり、社は一間に一間半、南の向ふ、祭神詳ならず、寛文の頃(一六六一-七三)村民畑を耕すとて、地類権現と彫づけし石を得たり、時の地頭中山勘三郎、此由を聞て社を立てんと思けるに、此地を古より稲荷山と号せしかば、社地のあとならんとて、社地と定め、この権現を勧請せりと云伝ふ、村内泉蔵寺の持」と記しており、創建の経緯をうかがうことができる。一方「郡村誌」では、社名は地類神社、祭神は稲田姫命となっていることから、当社は、豊かな実りをもたらす地霊を祀った社として信仰されていたものと推測される。
□ 御祭神と御神徳
・ 稲田姫命・・・五穀豊穣、厄除け
□ 御祭日
・元旦祭(一月一日) ・新年祭(二月初午) |
[埼玉県志木市] 神明神社
社名 | 神明神社(しんめいじんじゃ) |
所在地 | <br />
神明神社 埼玉県志木市柏町5-18 |
社格 | – |
御祭神 | – |
神紋 | – |
摂末社 | – |
情報源 | – |
訪問記 | 訪問日: 2017/06/10 |
御朱印 | – |
由緒書 | 神明神社 伊勢の皇太神宮を分祀した神社。一般に皇太神宮を分祀したものを神明社と呼び、全国で一万五千社を数えるといわれています。 平成七年一月三十日 志木市教育委員会 |
[東京都千代田区] 太田姫稲荷神社
社名 | 太田姫稲荷神社(おおたひめいなりじんじゃ) 一口稲荷神社(いもあらいいなりじんじゃ) |
所在地 | 太田姫稲荷神社 東京都千代田区神田駿河台1丁目2−3 |
社格 | 村社 |
御祭神 | 宇迦之御魂神 菅原道真公 徳川家康公 金山彦命 |
神紋 | 丸に細桔梗紋 – 太田道灌の家紋 |
摂末社 | – |
情報源 | – |
訪問記 | 訪問日: 2017/06/07 |
御朱印 | – |
由緒書 | 太田姫稲荷神社縁起古社名 一口(いもあらい)稲荷神社 御祭神 宇迦之御魂神 菅原道真公 徳川家康公 金山彦命 鎮座地 千代田区神田駿河台一丁目二番地 氏子区域 千代田区神田駿河台一、二、三、丁目 千代田区神田錦町一丁目、小川町二丁目太田姫稲荷神社は 極めて豊かな霊験伝承と 古い由緒をもつ神社であります 「駿河台文化史」(昭和十年神田史跡研究会)によると当神社の縁起は九世紀に始まります 詩才を白楽天に比されるほどの詩人参議小野篁(おののたかむら)が承和六年はじめ 伯耆国(ほうきのくに=鳥取県)名和港を出港してまもなく海が大そう荒れ狂い身の 危険を感じたため 篁は正装をして船の舳に座り熱心に普門品(ふもんぼん=観音経)を 唱えていると 白髪の老翁が波上に現れて「荒波から命を守つやるが疱瘡(天然痘= 大流行し治療法がなく非常に恐れられていた)を患えば一命が危ない われは 太田姫の命である わが像を常にまつれば この病にかかる事はないであろう」と告げ 波間に姿を消した そのお告げを護り自ら翁の像を刻み 護持していた のちに山城国 (京都府)の南にある一口の里に神社を祝い祭った 江戸の開祖として知られる太田資長朝臣(後の道灌)の最愛の姫君が思い疱瘡にかかり 絶望の中 人伝に一口稲荷神社の故事を聞き急使をつかわせ祈願 使者は祈祷の一枝と 幣を授かり帰ると 十直の病が癒えた資長朝臣は崇敬の念篤く城内本丸に一社建立し 姫君と共に深く敬拝した ある時この城の鬼門を守るべしとの神託があり 鬼門に移して 太田姫稲荷大明神と奉唱するようになった 長禄元年(一四五七年)のことである 慶長八年(一六〇三)八月 徳川家康公が江戸城へ入られた後 慶長十一年の江戸城 大改築の際 城内より西丸の鬼門にあたる神田駿河台東側に移されこの坂を一口坂(いも あらいざか 後に鈴木淡路守の屋敷が出来たので淡路坂ともいう)と呼ばれた その後 代々将軍が崇拝し 修理造営は徳川家が行ったと伝えられている 明治五年(一八七二)神社制度により神職司掌とする 例祭日は毎年四月十八日と定められ 後に五月第二土曜日となる 大正十二年(一九二三)関東大震災で類焼 御神体のみ無事に湯島天神に避難する 大正十四年(一九二五)仮社殿が落成 昭和三年(一九二八)氏子各位の寄進により 本社殿 神楽殿 御水舎 神輿庫 社務所 鳥居等新築される 昭和六年(一九三一)御茶ノ水駅 両国駅間の総武線建設のため社地大半を収用され 鉄道省より換地として 現在の地を神社敷地に指定 一切の建築物をそのまま移転 して今日に至る |
[埼玉県草加市] 氷川神社
社名 | 氷川神社 |
所在地 | 氷川神社 埼玉県草加市小山2丁目6 |
社格 | – |
御祭神 | – |
神紋 | – |
摂末社 | – |
情報源 | 草加市史調査報告書 第三集 草加の社寺 |
訪問記 | 訪問日: 2017/06/04 ちょうど西松屋の陰になる場所に神社。 小ぶりな拝殿の中には一間社流造の本殿。 |
御朱印 | – |
由緒書 | 草加市史調査報告書 第三集 草加の社寺 氷川神社 小山町「風稿」に「氷川社、村の鎮守なり、村持にて社傍に庵を作り、僧を置て守らしむ、末社に天神社、疱瘡社」とある。また「郡誌」に「境内に天神社、稲荷社の末社あり」と誌す。現在は「菅原神社 稲荷社」と刻む石柱(明治十三年九月吉日建立)があるのみで社殿は構えていたものであろう。 本殿 桁行一・四尺、梁行〇・八尺、向拝の出 〇・八尺の小規模な建物で、屋根は板葺の目板打ちとする一間社流造である。身舎は円柱に腰長押、内法長押をめぐらし、柱上にて直接桁をうけて、妻飾に束を立てる。向拝柱は几帳面どりの方柱で、頭貫を水引き虹梁に換え、端に象形の彫刻木鼻を用い、柱上に実肘木つき出三斗を組み、虹梁と軒桁の間に彫刻物を備え、軒を二軒としている。洋式細部の特色からみて、18世紀中葉の造立と推定される。 |