「鎮座地」カテゴリーアーカイブ

[東京都千代田区] 太田姫稲荷神社

社名太田姫稲荷神社(おおたひめいなりじんじゃ)
一口稲荷神社(いもあらいいなりじんじゃ)
所在地
太田姫稲荷神社

東京都千代田区神田駿河台1丁目2−3
社格村社
御祭神宇迦之御魂神
菅原道真公
徳川家康公
金山彦命
神紋丸に細桔梗紋 – 太田道灌の家紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2017/06/07
御朱印
由緒書太田姫稲荷神社縁起古社名  一口(いもあらい)稲荷神社
御祭神  宇迦之御魂神
菅原道真公
徳川家康公
金山彦命
鎮座地  千代田区神田駿河台一丁目二番地
氏子区域 千代田区神田駿河台一、二、三、丁目
千代田区神田錦町一丁目、小川町二丁目太田姫稲荷神社は 極めて豊かな霊験伝承と
古い由緒をもつ神社であります
「駿河台文化史」(昭和十年神田史跡研究会)によると当神社の縁起は九世紀に始まります
詩才を白楽天に比されるほどの詩人参議小野篁(おののたかむら)が承和六年はじめ
伯耆国(ほうきのくに=鳥取県)名和港を出港してまもなく海が大そう荒れ狂い身の
危険を感じたため 篁は正装をして船の舳に座り熱心に普門品(ふもんぼん=観音経)を
唱えていると 白髪の老翁が波上に現れて「荒波から命を守つやるが疱瘡(天然痘=
大流行し治療法がなく非常に恐れられていた)を患えば一命が危ない われは
太田姫の命である わが像を常にまつれば この病にかかる事はないであろう」と告げ
波間に姿を消した そのお告げを護り自ら翁の像を刻み 護持していた のちに山城国
(京都府)の南にある一口の里に神社を祝い祭った
江戸の開祖として知られる太田資長朝臣(後の道灌)の最愛の姫君が思い疱瘡にかかり
絶望の中 人伝に一口稲荷神社の故事を聞き急使をつかわせ祈願 使者は祈祷の一枝と
幣を授かり帰ると 十直の病が癒えた資長朝臣は崇敬の念篤く城内本丸に一社建立し
姫君と共に深く敬拝した ある時この城の鬼門を守るべしとの神託があり 鬼門に移して
太田姫稲荷大明神と奉唱するようになった 長禄元年(一四五七年)のことである
慶長八年(一六〇三)八月 徳川家康公が江戸城へ入られた後 慶長十一年の江戸城
大改築の際 城内より西丸の鬼門にあたる神田駿河台東側に移されこの坂を一口坂(いも
あらいざか 後に鈴木淡路守の屋敷が出来たので淡路坂ともいう)と呼ばれた その後
代々将軍が崇拝し 修理造営は徳川家が行ったと伝えられている
明治五年(一八七二)神社制度により神職司掌とする
例祭日は毎年四月十八日と定められ 後に五月第二土曜日となる
大正十二年(一九二三)関東大震災で類焼 御神体のみ無事に湯島天神に避難する
大正十四年(一九二五)仮社殿が落成
昭和三年(一九二八)氏子各位の寄進により 本社殿 神楽殿 御水舎 神輿庫 社務所
鳥居等新築される
昭和六年(一九三一)御茶ノ水駅 両国駅間の総武線建設のため社地大半を収用され
鉄道省より換地として 現在の地を神社敷地に指定 一切の建築物をそのまま移転
して今日に至る

[埼玉県草加市] 氷川神社

社名氷川神社
所在地
氷川神社

埼玉県草加市小山2丁目6
社格
御祭神
神紋
摂末社
情報源草加市史調査報告書 第三集 草加の社寺
訪問記訪問日: 2017/06/04

ちょうど西松屋の陰になる場所に神社。
集会所の傍。

小ぶりな拝殿の中には一間社流造の本殿。
社殿裏には一体のお地蔵さん、それに稲荷社・菅原社の碑、馬頭観音。

御朱印
由緒書草加市史調査報告書 第三集 草加の社寺

氷川神社

小山町「風稿」に「氷川社、村の鎮守なり、村持にて社傍に庵を作り、僧を置て守らしむ、末社に天神社、疱瘡社」とある。また「郡誌」に「境内に天神社、稲荷社の末社あり」と誌す。現在は「菅原神社 稲荷社」と刻む石柱(明治十三年九月吉日建立)があるのみで社殿は構えていたものであろう。

本殿 桁行一・四尺、梁行〇・八尺、向拝の出 〇・八尺の小規模な建物で、屋根は板葺の目板打ちとする一間社流造である。身舎は円柱に腰長押、内法長押をめぐらし、柱上にて直接桁をうけて、妻飾に束を立てる。向拝柱は几帳面どりの方柱で、頭貫を水引き虹梁に換え、端に象形の彫刻木鼻を用い、柱上に実肘木つき出三斗を組み、虹梁と軒桁の間に彫刻物を備え、軒を二軒としている。洋式細部の特色からみて、18世紀中葉の造立と推定される。

[埼玉県秩父市] 柞祖霊社

社名柞祖霊社(ははそそれいしゃ)
所在地
柞祖霊社

埼玉県秩父市番場町2
社格
御祭神
神紋
摂末社秩父神社の兼務社
情報源
訪問記訪問日: 2017/05/28

秩父神社に参拝した時、秩父まつり会館の裏手に鳥居があるのを発見。
道路の向かいだしと、参拝。

由緒書きをみると、近年になって創建された祖霊社とのこと。
建物は移築のようであるが、ぱっと見はかなり新しい新築にしか見えない。

柞の字は当初読めず…由緒書きにあるルビでようやく読めた。
これで「ははそ」と読むようである。

Wikipediaによると

ハハソ…コナラなど、ブナ科コナラ属の総称

とあり、木の種類を表しているとのこと。
由緒書きを見ると、鎮守の杜からの名前であるとあるので、このあたりにはコナラの木が繁茂していたのであろう。

御朱印
由緒書『柞 祖霊社』御鎮座の由来

本社は、ご祭神として幽冥の大神をはじめ、当社の神葬祭をもって奉斎する各ご家庭代々
の御祖達のご分霊を共に招き祀って、末長く鎮め奉る祖霊社として新たに創建されました。
ご社殿につきまいては、信濃国安曇野(現・長野県安曇野市)に鎮座の古社、旧国幣
小社・穂高神社が本年五月九日に斎行された式年造替遷座祭に伴う旧神殿遺構を用材
に譲り受け、そのご神縁を蒙りつつ然るべき改修をほどこして建立したものであります。
なお本社のご社名は、当社の社叢に古く伝わる名称「柞の杜」に鎮座の故であります。
因みに本社ご創建にちきましては、去る平成十七年帰幽の故千嶋文曹翁命が生前に
奉納された建設基金をはじめ、当社大総代、立正佼成会秩父教会ご有志ほか篤志の皆さまによるご浄財あっての成就と、ここに銘記してご芳志のほど衷心より御礼申し上げます。

世々の祖のみかげわするな世々の祖はおのが氏神おのが家の神 本居宣長大人詠歌

吾らが神道におきましては、亡き人びとの御霊を末長く現世に祀りつづけることこそ
後生の安心と心得て、ご遺族をはじめ縁者の方々と共に鎮魂の神祭をご奉仕しております。
幸いに本社の創建が叶いましたからには、各ご家庭それぞれの御霊屋奉斎に併せて、
当本社のご霊前鎮祭をも行く末永くご奉仕いたすことを謹んでお誓い申し上げます。

平成二十一年八月吉日

秩父神社 宮司 園田 稔 謹誌

[埼玉県秩父市] 御嶽普寛神社

社名御嶽普寛神社(おんたけふかんじんじゃ)
所在地
御嶽普寛神社

埼玉県秩父市大滝944
社格単立神社
御祭神
神紋山丸三
摂末社熊野神社
三峯神社
出世稲荷神社
情報源
訪問記訪問日: 2017/05/28

三峰神社よりの帰り道。
目立つ鳥居を発見。参拝しました。

門はキッチリと閉めてありましたが、掲示によると獣害がひどいための措置で参拝者は開けて入っていいとの事。
お言葉に甘えて参拝。

日が悪かったのか社務所は締まっており、お話等を聞くことはできませんでした。
その為、参拝のみ。
谷に向かって社殿が建ち、その向かいに神楽殿。社殿右側に社務所。
御嶽教の目印である「山丸三」の神紋が大きく掲げられていたのが印象的。

境内社の出世稲荷神社は境内ではなく、門の外に隣接して鎮座。
こういうのも境内社と呼んでいいんだろうか。それとも、この関係でも境外社と呼ぶんだろうか。

後に帰ってから調べたところ、この神社は、御嶽教の中では特別な位置にある様で、御嶽教を創設した普寛の墓所四カ所の一つであり、出生地とされているとの事。
普寛と言えば修験道。その位は知っているけれど。よく考えると修験道ってどんなもんなんだろうか。
修験者のイメージ映像は頭に浮かぶけれど、それ以上の知識がないことに今更気が付く。
日本人に生まれながら、日本の事って、知っているようであまり知らないもんなんだなぁ。
こういうことを切っ掛けにでもして、少しでも調べていかないとなぁ。と思わせてくれる訪問であった。

御朱印情報あり(未確認)
由緒書

[埼玉県川口市] 朝日氷川神社

社名朝日氷川神社
所在地
朝日氷川神社

埼玉県川口市朝日1−3−15
社格
御祭神素盞嗚命
櫛稲田姫命
神紋
摂末社・出世稲荷神社
・須賀神社
・大国神社
情報源朝日氷川神社
訪問記訪問日: 2017/05/07
御朱印あり(500円) – 社務所にて
由緒書朝日氷川神社 御由緒
川口市朝日一ー三ー十五
□ 御縁起(歴史)
当社創建は、天正年中(一五七三〜室町末期)に今の地に再建されたと
あり、約五百年間と推定される。『風土記稿』に、樋爪村(二十九日村)・
十二月田村・前田村・二軒在家村の鎮守とあり、現在の十二月田を含む朝
日町全域となっている。鎮座地は樋爪村の西端にあり、氏子が氷川大神を
拝する時は、西方にある芝川を望むがごとくある。現在、社殿裏手の道路
は、かつての芝川堤防跡である。
御祭神は素盞嗚命、櫛稲田姫命の二柱で、神仏分離まで内陣には聖観音
を奉安していた。また、素盞嗚命を「牛頭天王」として祀る須賀神社が合
祀されている。
『明細帳」によると、明治四十年六月十四日、大字十二月田字大坪にあっ
た村社稲荷社、大字二軒在家字稲荷田の無格社稲荷社が当社に合祀されて
いる。内陣にはこの両社いずれかのものと思われる「正一位稲荷五柱太神」
と墨書された神璽と、高さ二十五センチメートルの自然石がある。
本殿は一間社流造りで、銅板葺きの屋根となっている。拝殿内には川口市
青木の氷川神社の随神門にあった左大臣、右大臣が奉安されている。大正
十二年の関東大震災では社殿が倒壊するも、昭和十三年七月二十五日に再建。
その後老朽化した建物すべてを「平成の大造営」と称して再建し、平成十五
年五月、新社殿・社務所が木の香清しく完成となった。
□ 御祭神と御神徳
・素盞嗚命・・・・厄除招福、厄災消除、病気平癒
・櫛稲田姫命・・・安産、子育て、夫婦和合、五穀豊穣
□ 末社
・出世稲荷神社 ・須賀神社 ・大国神社
□ 御祭日
・春祭り(二月二十五日) ・夏祭り(七月十五日前後の土、日)
・例大祭(十月十五日) ・新嘗祭(十一月二十三日)

[静岡県三島市] 三嶋大社

社名三島神社(みしまじんじゃ)
三嶋大社(みしまたいしゃ)
所在地
三嶋大社

静岡県三島市大宮町二丁目1番5号
社格延喜式内(名神大社)
伊豆国一宮
伊豆国総社
官幣大社
別表神社
御祭神三嶋大社 Webサイトによる
大山祇命(おおやまつみのみこと)
積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)
御二柱の神を総じて三嶋大明神(みしまだいみょうじん)と称しています。

静岡縣神社志 による
祭神 正殿一座 玉籤入彦厳之事代神(たまくしいりひこいづのことしろぬしのみこと)
或云、積羽八重事代主命(つみはやゑえことしろぬしのみこと)
或云、都波八重事代主神(つはやゑえことしろぬしのみこと)
相殿四座 阿波神(あはのはみ) 或云、阿波咩命(あはめのみこと)
伊古奈比咩命(いこなひめのみこと) 又御名 三島溝樴姫(みしまみそくひひめのみこと)
一座神名未詳(社傳、物忌奈命(ものいみなのみこと))
一座神名未詳(社傳、大山祇命)

祭神を事代主とする主張は江戸時代後期の平田篤胤によるものであり、割と最近の話である。
江戸期までは大山祇命とされていた。
ただし、近年では伊豆諸島の神、ミシマ(御島)の神(三嶋大明神)であるとする資料も多く見られる。
神紋折敷に三文字紋
五七の桐紋
摂末社
情報源三嶋大社
訪問記訪問日: 2017/05/06

伊豆地域の神社を目指して参拝旅行をする関係で、三島もよく来るには来るけれど。
いつも混雑している三島大社はなかなか訪問する機会もなく。
その昔は仕事の関係でもよく来ていたこともあり、年に数回は詣でていたんだけれど。
かれこれ20年ぶりくらいの訪問。

社頭右側に神社の駐車場(有料)があるので、そこに車を止めて参拝。

崇拝篤い神社だけあって、参拝するたびに感嘆である。
ともかく広い境内で、鹿苑もある。

社頭にある灯篭にある「折敷に三文字」の神紋を確認しつつ、境内へ。
かなり大きな境内で、立派な神池が出迎えてくれます。
そしていたるところに十六八重表菊。
神池をみながら境内を進むと神門、その先には舞殿があり、その真裏に社殿。
社殿もかなりの豪勢さ。

社伝によると、災害により深刻な被害を受けることもあったが、その度に再建してきたという。
しかも迅速な再建で、各地からの信仰の篤さを感じさせる。

ともかく、いつ来ても大勢の人でにぎわっている。
一度でいいから、落ち着いてゆっくり参拝してみたいものだ。

御朱印あり
由緒書

[静岡県西伊豆町] 辨財天社

社名辨財天社
所在地
辨財天社

静岡県賀茂郡西伊豆町田子字本宮 (田子瀬浜海岸)
社格
御祭神辨財尊天
神紋波に三つ鱗紋
摂末社
情報源西伊豆町誌 資料第一集 神社・寺院並びに棟札編
訪問記訪問日: 2017/05/05
田子港より海沿いに約1キロほど南下する。
途中の道は細く、すれ違いも気を使う。途中の入江には造船所などもあり、港町の雰囲気を存分に楽しめる。
車でアプローチできる一番奥、海水浴場までいくと、海に向かってひとつの社が立っている。
弁天社である。
西伊豆町誌によると、この弁天社はもともと、目の前の海に浮かぶ「弁天島」に鎮座していたとのこと。
昭和五十二年に発生した伊豆大島近海地震により大きな被害を受けたため、本地に遷座したとのことのようである。
大きな被害は受けたが、弁天島での本殿修復の意向もあったが、今後予想される東海地震を懸念し、最終的に、昭和五十八年三月の遷座となったようだ。
御朱印
由緒書

[静岡県松崎町] 仲神社

社名仲神社
所在地
仲神社

静岡県賀茂郡松崎町那賀64
社格静岡県神社庁神社等級規定 十四等級神社
村社
延喜式内(仲神社:論社)
延喜式内(伊那上神社:論社)
延喜式内(仲大歳神社:論社)
御祭神
神紋
摂末社
情報源仲神社 – 静岡県神社庁
訪問記訪問日: 2017/05/05

所用で松崎町を通過する用事があったので、以前から気になっていた「仲神社」を目指す。
この地域は道が入り組んでいて細い上、生垣などがあったりして見通しも悪い。
迷いに迷って、ようやく探し出した。迷ったおかげでどうやってたどり着いたかすらよくわからない。
たぶんだが、車で向かうのであれば、「那賀生活改善センター」あたりを目標にするとよいと思う。

入り組んだ細い道を進んできた感覚からすると、集落の中にぽかっと空いた空き地的境内。
広くもないが、集落の集会を行ったりお祭りを行うのは事足りそうなサイズである。
境内内には「那賀生活改善センター」があり、近隣住民の集会所等として利用されているようだ。

道路から見ると敷地に斜め方向に立つ白色の明神鳥居。
鳥居に向かって左が「那賀生活改善センター」、右が「拝殿」である。

拝殿は神社建築というより、どちらかというと商家の建物…といった様相。
扉には鍵はかかっておらず、自由に開けて参拝する形式の様です。

ひとまず、扉を開けて参拝。

拝殿内には、静岡の神社らしく等級が掲示されており、本社は静岡県神社庁神社等級規定十一等級とのこと。

御朱印
由緒書

[静岡県下田市] 波夜多麻和氣命神社

社名波夜多麻和氣命神社(はやたまわきのみことじんじゃ)
波夜多麻和氣神社
相玉天神宮(旧社名)
所在地
波夜多麻和氣命神社

静岡県下田市相玉8
社格村社(明治六年)
従四位上 おほゐの明神(伊豆国神階帳)
波夜多麻和氣命神社(延喜式内:論社)
佐伎多麻比咩命神社(延喜式内:論社)
御祭神波夜多麻和氣命(はやたまわけのみこと)
神紋
摂末社
情報源波夜多麻和気命神社 – 静岡県神社庁
訪問記訪問日: 2017/05/05

稲生沢川の南側、並走する15号線を伊豆急行稲梓駅より西方面に進む。
南側の丘の上に社が見える。

台輪鳥居、社号標の先に急峻な石段。
その先に社殿。

社号標には「式内波夜多麻和氣神社」の陰刻。
ただ、神社庁などの情報によると…社名は「波夜多麻和氣命神社」で「命」の一文字が抜けている模様である。
ただ、目と鼻の先にあるバス停の名称は天神前。
本来の社号は天神社なのか?と帰宅後にネットで簡単に検索。

例えば伊豆下田市相玉の式内:波夜多麻和氣命神社は土地では「天神さん」として祀られてきており(波夜多麻和氣命を祀るという記録はない)、神社前のバス停名も「天神前」である。しかしここは「菅原道真公を祀る」という伝があったわけでもない。まことに大雑把に「天神さんの社」だったのだ。伊豆は伊豆三嶋大神の御子神たちが複雑な名前であることから一般に膾炙しなく、単に若宮さんとか天神さんとか呼ばれてよく分からなくなってしまった例が多い。

神社巡りの方法|四座 読|龍学 -dragonology-より

なるほど、バス停が天神前だからと言って、過去は菅公を祀っていたものを…みたいな安直な想定はよろしくないという事なのだろう。
伊豆神社は奥深い。

石段を登り、参拝。

鳥居は綺麗にペンキが塗られているところを見ると、地域の信仰は残っているんだろうと思う。
それでも、社殿はかなり痛んでおり、維持の難しさを感じさせる様相。
神社の維持というのは現代ではかなり難しいんであろうと思う。

参拝後、振り返ると周囲の美しい景色。

御朱印
由緒書