社名 | 第六天神社(だいろくてんじんじゃ) |
所在地 | 第六天神社 埼玉県さいたま市岩槻区馬込200−1 |
社格 | |
御祭神 | 譽田別命(八幡神社) 鸕鷀鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)(深津神社) 加且土命(かぐつちのみこと)(愛宕神社) 大日孁貴命(おおひるめのみこと)(神明社) 別雷命(わけいかづちのみこと)(雷電社) |
神紋 | |
摂末社 | 八幡神社 葺不合社(深津神社) 愛宕神社 神明社 雷電社 小御嶽神社 |
情報源 | 第六天神社 | 埼玉県の神社 |
訪問記 | 訪問日: 2016/06/26 国道122号線からちょっと入ったところに鎮座。 木が生い茂り、遠くからも「あそこに神社があるんだな」とわかるような感じ。 社頭に立ち、境内を望む。 入口には両部鳥居。その左側に小高く盛り上がった場所があり、そこに小御嶽神社。 このこんもりした場所は富士塚なのでしょう。そして、特に由緒などはないけれど、富士五合目の小御嶽神社の勧請であれば、磐長姫命を祀っているのでしょう。鳥居をくぐり先に進む。その先には神明鳥居。そして社殿。 そこそこ迫力のある狛犬がお出迎え。参拝。 社殿脇には境内社。 |
御朱印 | |
由緒書 |
「鎮座地」カテゴリーアーカイブ
[東京都中野区] 打越天神北野神社(中野)
社名 | 打越天神北野神社(うちごしてんじんきたのじんじゃ) |
所在地 | 打越天神北野神社 東京都中野区中野5丁目8−1 |
社格 | 無格社 |
御祭神 | 菅原道真(すがわらのみちざね) |
神紋 | 梅鉢紋 |
摂末社 | 天神伏見稲荷神社(てんじんふしみいなりじんじゃ) – 宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと) |
情報源 | 打越天神北野神社|中野区中野の神社 |
訪問記 | 訪問日: 2016/06/06 所用で中野まで来たついでに参拝。 入り口の神明鳥居をくぐると目の前に社殿。右側には神輿庫と思われる建物、左には境内社である天神伏見稲荷神社。 参拝。 人通りの激しい中野駅前から徒歩数分。喧騒から離れ鎮守が守られている。 |
御朱印 | |
由緒書 |
[東京都板橋区] 向原八雲神社(向原)
社名 | 向原八雲神社(むかいはらやくもじんじゃ) |
所在地 | 向原八雲神社 東京都板橋区向原2丁目4−7 |
社格 | |
御祭神 | 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと) |
神紋 | 祇園守紋 |
摂末社 | |
情報源 | |
訪問記 | 訪問日: 2016/06/06 地下鉄有楽町線の小竹向原駅より千川駅へ向かう途中に鎮座。 地下鉄の通る表通りではなく、一本裏の住宅街の中。 静かな通りに小ぶりな明神鳥居。入口が狭く多少窮屈に感じるが、奥には立派な社。 神社自体は八雲神社ということで、須佐之男命を祭っているという事になっているが、京都の八坂神社所縁の珍しい御神紋「祇園守」をいただいていたり、古から「天王さま」と呼ばれていたりすることから、本来は牛頭天王社であったものが、明治期に須佐之男命として現在に至るものと推測される。 総社が津島神社であるという事は、牛頭天王を祭神としていたことは間違いないでしょう。この辺りは、大宮の氷川神社由来の素戔嗚尊と牛頭天王社由来の須佐之男命が入り混じる。 そのあたりを推測しながら参拝するのも一つの楽しみ方ではないかと思う。 |
御朱印 | |
由緒書 | 向原八雲神社 御由緒 御祭神 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと) 当神社は江戸時代この地域の先祖が現在の向原一丁目に勧請し、江戸時代末期頃現在の地に遷されたと伝えられており、現在は向原地域の鎮守社としてお祀りしております(尚、向原地域の氏神は東新町に鎮座する氷川神社であります) 当神社には「祇園守」という京の祇園神社(現八坂神社)所縁の珍しい御神紋が有り、また古から「天王さま」と呼ばれ親しまれております。当神社の総社は愛知の津島神社であることから同御祭神の八坂様と共に深い所縁がございます 八雲神社は古来より疫病や天災を祓う神様として崇められておりますが、更に健康や家内安全・商売繁盛・学問成就などに御利益があるとして、向原地域のみならず近隣諸地域の皆様から厚い崇敬をいただいております。 比度、平成十九年丁亥九月崇敬者各位の御奉賛により新社殿が竣工致しました。この奉賛事業を記念し、永く御由緒之碑を奉納致します。 平成十九年九月四日 向原八雲神社奉賛会 |
向原八雲神社信仰関係資料 向原八雲神社は、須佐之男命を祭神とし、当地の鎮守であったと伝えられています。元々は向原一丁目に祀られていましたが、江戸期に現在地へと移座したとされます。 当社には、富士・大山信仰に関する資料があります。境内の手水鉢は、富士講の講中の一つである山万講の枝講で、上板橋村に展開した丸證講が江戸期に奉納したもので、そこに刻まれている世話人には、富士山三十三度成就を果たした大先達である向原の三原松五郎の名前が確認できます。 大山信仰に関わる資料としては、木太刀や神酒枠があります。木太刀は大山まで講員が持参し、良弁の滝で水垢離をした後に神前へと奉納され、それと引換えに以前奉納した木太刀を持ち帰ってお守りとするものです。神酒枠は大山へ御神酒を奉納し、帰りに御神水を入れる御神輿状のもので、これらは区内では当社だけに確認されています。 他にも、明治四年(一八七一)以降の年紀を持つ、榛名・大山・富士・古峯・武州御嶽・木曾御嶽などへの登拝講にかかわる古文書と、当地「オビシャ」信仰に関わる古文書も管理しています。 これらの八雲神社の信仰関係資料は、当地の江戸期以降の祭祀や登拝講について、その組織の実態などをあきらかとする貴重な資料群であり、平成二十年度に区登録有形民俗文化財となりました。 平成二十一年九月 板橋区教育委員会 |
[埼玉県戸田市] 美女木八幡社(美女木)
社名 | 美女木八幡社(びじょぎはちまんしゃ) |
所在地 | 美女木八幡社 埼玉県戸田市美女木7-9-1 |
社格 | (和楽備神社の兼務社) |
御祭神 | 仲哀天皇 応神天皇 |
神紋 | |
摂末社 | 厳島社 山神社 氷川社 大鳥社 水神社 御嶽社 秋葉社 赤羽稲荷社 香取・鹿島社 恵比須大黒天社 三宝大荒神 稲荷社 一目連社 |
情報源 | |
訪問記 | 訪問日: 2016/05/28 美女木ジャンクションの北西側。 |
御朱印 | なし |
由緒書 | 美女木八幡社 創建を鎌倉時代と伝える古社で、祭神は仲哀天皇と応神天皇の二柱です。伝承によると、後鳥羽院の御代、文治五年(一一八九)源頼朝が奥州下向の時、当地に立ち寄った際に神のお告げがあり、相州鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものと伝えられています。南北朝期の記述として、「新八幡宮」といわれていたことが浦和市宮本の氷川女体神社に伝存する大般若経(至徳二年・一三八五)の奥書に記されています。 平成九年三月 |
[埼玉県戸田市] 帝稲荷神社(美女木)
[静岡県西伊豆町] 神明神社(海名野)
社名 | 神明神社(しんめいじんじゃ) 海名野神明神社(かいなのしんめいじんじゃ) |
所在地 | 神明神社 静岡県賀茂郡西伊豆町仁科574(旧:仁科村浜字海名野) |
社格 | 村社 (延喜式内 仲大歳神社の論社は否定) |
御祭神 | 天照皇大神 天照皇太神(新南豆風土誌による) |
神紋 | 丸に五三の桐 |
摂末社 | |
情報源 | 人形三番叟、県文化財に 海名野神明神社―西伊豆 - 伊豆新聞 西伊豆町誌 資料 第一集 神社・寺院並びに棟札編 新南豆風土誌 |
訪問記 | 訪問日: 2016/05/02 せせらぎの湯の奥。 西伊豆町の無形民俗文化財「海名野神明(かいなのしんめい)神社の人形三番叟」として名の通った神社。 当初は「式内社・仲大歳神社の論社」ということもあって訪問したのだが、社殿に貼られていた由緒書き(というか、西伊豆町誌 資料 第一集 神社・寺院並びに棟札編のコピー)によると、「当社は曾て、式内社仲大歳神社とされた説があったがそれは謬である。」と真っ向から否定されていた。まぁ、創立年月日は不明であるものの「長禄元年(一四五七)」の記録があるということだから、500年以上の歴史があるのは間違いなく、長い間、住民の生活を見守ってきた重要な神社であることは間違い無いだろう。三世紀も守られ続けている人形三番叟もそれを裏付けている。 |
御朱印 | – |
由緒書 | 西伊豆町誌 資料 第一集 神社・寺院並びに棟札編 神明神社 西伊豆町中五四七番地(海名野) 祭神 天照皇大神 環境 縁起 本願須田図書助 |
[埼玉県朝霞市] 美女神社(田島)
社名 | 美女神社(びじょじんじゃ) 宇津久志の宮(うつくしのみや) |
所在地 | 美女神社 埼玉県朝霞市田島2-16-33 |
社格 | |
御祭神 | 市杵島姫命 |
神紋 | |
摂末社 | ※ 田島神明神社の飛地境内社 |
情報源 | |
訪問記 | 訪問日: 2016/03/27 大通りから一本入った路地、一方通行ゆえに狙っていかなければこの神社にはたどり着かないだろう。 住宅に囲まれた狭小の社地に神明鳥居。 境内はきれいに整備されており、心地よい。社名の由来は川の向こう側にある「美女木」の関連か?と思って訪れたが、どうもそれは関係がないらしい。 市杵島姫命の「いちきしま」が転化し美女神社になったようだ。埼玉の神社によると、本社は神明神社(田島)の飛地境内社で、当該項目には下記のように記されている。 当社北方の飛地境内に美女神社と呼ばれる珍しい社名の社がある。祭日は五月一日で、俗に「美女(うつくし)様のお経」と飛ばれる。元来は氏子銘銘が持参したお重の手料理を神前に供え、その前に筵を敷いて全員が着座し、年長者の発声で般若心経を唱和したが、昭和十五年頃に行われなくなった。現在は神饌をお重に入れて供え祭典を行い、終わると町会会館で直会をする。 みていてよくわからなかったのは「クチムキ」。何だろうと調べてみると、百日咳のことのようである。 |
御朱印 | |
由緒書 | 美女神社 御由緒 □ 御縁起(歴史) |