社名 | 大宮神社 |
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所在地 | 千葉県市原市五井1597 |
社格 | 村社 |
御祭神 | 國常立命(くにのとこたちのみこと) 天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ) 大己貴命(おおなむちのみこと)境内社 菅原道真 – 大宮天神社 月讀命(つきよみのみこと) – 三夜神社 埴山姫命(はにやまひめのみこと) – 鎮地神 武速素戔嗚尊(たけはやすさのをのみこと) – 疱瘡神社 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと) – 三峰神社 道祖神(どうそじん)、八衢彦命(やちまたひこのみこと) – 道睦神 大山祇命(おおやまつみのみこと) – 日枝神社 木之花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと) – 子安神社 |
神紋 | 五三桐紋 |
摂末社 | 大杉神社(あんばさま) 祓戸大神 浅間神社(富士塚) 大宮天神社 三夜神社(さんやさま) 鎮地神(ちぢのかみ) 疱瘡神社(ほうそばばさま) 三峰神社(みつみねさま) 道睦神(どうろくじん) 日枝神社(ひえじんじゃ) 子安神社 湯殿山 忠魂碑 |
情報源 | – |
訪問記 | 訪問日: 2017/11/23 駅より徒歩5分ほど。 比較的大きな社地を持つ神社のようです。 一の鳥居をくぐり、進むと立派な社殿。その手前には左右に境内社。 境内社の浅間神社。鳥居の後ろには「富士塚」。登山できるような筋はあるものの、現在は登山禁止となっている模様です。 久しぶりに富士塚を見たなぁ…と、その脇に目を向けると、こっちも珍しい文字。 ちょうど天神社の裏に隠れるように「扶桑教」の文字の刻まれた石碑。扶桑教は富士講から派生した教派神道の一派ですので、まぁ、富士塚と一緒にあるのは不思議ではないけれど。久々に扶桑教の文字を見たような気がする。 駐車場は社殿裏と参道脇に2箇所。 |
御朱印 | あり(300円) – 社務所にて |
由緒書 | 上総国五井 大宮神社 御由緒 社伝によれば、第十二代・景行天皇の御代、日本武尊が御東征された檻の御創建と伝わる。 社名の「おおみや」とは、かつての広大な境内地に由来する。治承四年(一一八〇年)には 源頼朝が当社に参詣し、奉幣祈願したとの記録がある。また、小田原の北条氏が戦勝祈願 の際に太刀一振りを奉納している。江戸時代には開運・殖産・農業・漁業への守護の御神徳 より近隣二十八ヶ村の総鎮守として庶民の信仰を集めた。 現在では地域の鎮守とともに、京葉臨海工業地帯の各会社の守護神として広く崇敬を集 めている。平成二十五年に二二〇年ぶり(寛政五年以来)の本殿改修をを行い御神威もいよい よ灼かとなった。 御祭神 國常立命(くにのとこたちのみこと) 生命力が宿る大地を形成した神。国土の永遠性をあらわす神。 天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ) 太陽のように光り輝く御神徳で高天原を治める神であり、皇室の御祖先神。日本民族の総氏 神と仰がれている神。 大己貴命(おおなむちのみこと) 一般にだいこくさまと親しまれている神。大国主神(おおくにぬしのかみ)との呼ばれている 国土開拓の神であるとともに、農業・産業の恵を授ける神。 |
由緒書 | 大宮天神社 祭神 菅原道真 霊験、学問、書道、芸能、技芸 氏子崇敬者の菅原道真公の学徳を 敬仰するもの、もとより後を絶たず。 依って北野天神、太宰府天神、 大阪天神の三天満宮より御分霊を 勧請し奉り、神殿を造立して 大宮天神となす。 |
社名 | 神明神社 |
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所在地 | 静岡県沼津市戸田2556 |
社格 | 無格社 |
御祭神 | 天照皇大神 |
神紋 | – |
摂末社 | 舟山天満宮 |
情報源 | – |
訪問記 | 訪問日: 2017/04/30 海岸沿いの国道を南下中、途中の碧の丘(展望エリア)で休憩。 海が綺麗だなと見ていたら、ちょい先の集落に鳥居があるのが見えた。 ナビをみると、神社らしい。 そこでちょっと寄り道。舟山の集落方面に進む。 ゆめとびら舟山という青少年屋外研修施設の向かいに鳥居。 社地は木々に程よく光を遮られる形になっており、しっとりと湿った空気が流れている。 なんとなく、この空気感が神聖な場所に来た感じを誘ってくれる。 境内は綺麗に整備されており、社殿も手が入っているようである。 信仰が生きているのが感じられる。 境内社と思われる天満宮には誌文があったが、神明神社には特に由緒書などは無く、詳細は不明。 |
御朱印 | – |
由緒書 | – |
由緒書 | 舟山天満宮誌文 天を敬い地に親しみ人々相和し文化を築く、是人の正道なり。 我等此処に社屋新たにし先祖伝来の天神を祀り、学業の進展を祈願す。 小学学習を旨とし、その実を挙げ文化の里たらんことを期す。 平成十三年十二月吉日 舟山区民一同 |
社名 | 香取神社(かとりじんじゃ) 花和田香取神社 |
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所在地 | 埼玉県三郷市花和田四一六番号 |
社格 | – |
御祭神 | 経津主之命(ふつぬしのみこと) (別名: 伊波比主之命(いわいぬしのみこと)) 合祀: 天照皇大神、宇賀能魂命、須佐之男命、伊弉再命、八大竜王命 |
神紋 | – |
摂末社 | – |
情報源 | – |
訪問記 | 訪問日: 2017/04/22 |
御朱印 | – |
由緒書 | 香取神社(かとりじんじゃ) 所在地 三郷市花和田四一六番号 香取神社は、千葉県佐原の香取神宮を本社として、文明年間(一四六九〜一四七八)に勧請した神社で、明治四十年二月五日神明神社、稲荷神社、羽黒山を合祀した。 現在の中川は昔の利根川であり、この地方は下総国になっていた。このため現在の中川の東側は香取神社が祀られ、西側は武蔵国で氷川神社が多く祀られていた。その後、江戸時代になってこの地方は江戸川の西側となり武蔵国になった。 当神社の祭神は、経津主之命(ふつぬしのみこと)(別名伊波比主之命(いわいぬしのみこと))で、その他に天照皇大神、宇賀能魂命、須佐之男命、伊弉再命、八大竜王命が合祀されている。 合祀されている祭神のうち八大竜王命は、昔この地方の八人の名主が水害からこの地方を守るため、人柱となってくれた八人の命を水神様として祀ったものである。 例祭は、元旦祭(一月十二日)、初午(二月の初午日)、夏祭(七月十五日)、秋祭(お日待、十月十五日)である。このうち夏祭は、以前山車と囃子で村回りをしていたが、現在はお神輿で町内を回っている。昭和六十一年三月 埼玉県 三郷市 |
社名 | 神明神社(しんめいじんじゃ) 海名野神明神社(かいなのしんめいじんじゃ) |
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所在地 | 静岡県賀茂郡西伊豆町仁科574(旧:仁科村浜字海名野) |
社格 | 村社 (延喜式内 仲大歳神社の論社は否定) |
御祭神 | 天照皇大神 天照皇太神(新南豆風土誌による) |
神紋 | 丸に五三の桐 |
摂末社 | |
情報源 | 人形三番叟、県文化財に 海名野神明神社―西伊豆 - 伊豆新聞 西伊豆町誌 資料 第一集 神社・寺院並びに棟札編 新南豆風土誌 |
訪問記 | 訪問日: 2016/05/02 せせらぎの湯の奥。 西伊豆特有の細い道をちょっと心配しつつ進む。 西伊豆町の無形民俗文化財「海名野神明(かいなのしんめい)神社の人形三番叟」として名の通った神社。 とはいえ、今はその季節ではなく、ただただ、緑に勢い付く木々の間にひっそりと佇む社殿が神聖な空気をかもしだすだけである。 当初は「式内社・仲大歳神社の論社」ということもあって訪問したのだが、社殿に貼られていた由緒書き(というか、西伊豆町誌 資料 第一集 神社・寺院並びに棟札編のコピー)によると、「当社は曾て、式内社仲大歳神社とされた説があったがそれは謬である。」と真っ向から否定されていた。まぁ、創立年月日は不明であるものの「長禄元年(一四五七)」の記録があるということだから、500年以上の歴史があるのは間違いなく、長い間、住民の生活を見守ってきた重要な神社であることは間違い無いだろう。三世紀も守られ続けている人形三番叟もそれを裏付けている。 |
御朱印 | – |
由緒書 | 西伊豆町誌 資料 第一集 神社・寺院並びに棟札編 神明神社 西伊豆町中五四七番地(海名野) 祭神 天照皇大神 環境 国道一三六号の仁科浜橋付近を基点とする主要地方道 西伊豆〜伊東線を仁科川の右岸を遡ること約一・五キロ メートル中村の集落がある。ここは江戸時代の中村の名 が残っているところである。海名野橋のバス停付近から 橋を渡り石畳の坂道を登り海名野の家並みを通り抜け山 道にかかるところ右に谷川が流れ、左に神明社の石段が 見える。神域は集落から一段と高い場所にあり、杉木立 を背にして本殿が建てられている。前には、天然記念物 に指定されている一対のナギの大木が立っている。右側 は庁屋で、秋の祭りには民俗文化財に指定されている三 番叟が上演される。小規模ながら旧村社にふさわしい環 境にある。 縁起 創立年月日は不詳。かつては火災に遭って多くの記録 を失っている。 『豆州志稿』によれば、長禄三年(一四五九)の棟札に「神名 難分、本願須田対島頭」とあり。また、慶長三年(一五九八) の札に「須田図書之助経営」とされているが、この二つの 棟札は現存していない。明治十八年調査佐波神社祠官間 野斉宮の報告によれば、長禄元年二月十一日(一四五七) 再建より重修の棟札ありと記されているが長禄元年の棟 札も現存しない。以上の諸記録の中でもっとも年代の古いも のは長禄元年(一四五七)である。 現在当社には十二点の棟札が残されている。その中で もっとも古いと思われるものに次のものがある。 本願須田図書助 豆州仁科庄海名野村 同仇左衛門 大工鍛冶関采女正政繁 奉建立伊勢神明御宝殿前諸願成就皆令満足者也 大工窪田彦左衛門吉次 鈴木藤衛門 干時慶長拾五年庚戌九月十日敬白 祢宜六左衛門 その他、建立、重修、造立等に関する記録を遺した棟 札の主なものとして次ぎのものがある。 1.奉建立勢陽天照大神宮与流氏諸願成就必矣 干時萬治二仲冬念五鳥(一六五九) 2.奉造立神明宮御神殿 延享三年十月十三日(一七四六) 3.宝暦五年九月十六日(一七五五)氏子四十九人が門前 の土地その地を献納 4。文化三年七月吉日(一八〇六) 奉修大峯乗灯護摩供社頭安全枚 5。明治六年十月 奉斉神明社、合並社(栗原天神社・寺川駒形神社・岩谷戸八 幡社・堀坂熊野社・一色山神社・祢宜畑子神社・白川三王 社・大城八幡社・宮ケ原天神社)(註村社となる) 6.大正九年十一月四日 鳥居新設 7.昭和四年十月七日 奉納神明社昇格記念 8.昭和二十七年十一月四日 奉斉神明復興記念 9.年代不詳(大正末期から昭和初期) 奉鎮斉 神明社改築拝殿 当社は曾て、式内社仲大歳神社とされた説があったが それは謬である。仲は中村に由来するとしたのであろう が、往時中村は仁科庄の本郷に含まれており、(本郷には 既に式内佐波神社があり)村に式内社が二社存在するこ とはないのである。また口碑によれば「当社は式内にして、 須田対島頭守広創建」とあるが須田対島頭守広は文亀、大 永の十六世紀初頭の人であって、式内社を定めた延喜式 の成立は十世紀であり、須田氏が式内社を創建すること はあり得ないことである。 当社において、毎年十一月の秋祭りに奉納される三番 叟は初演が享保年間即ち一七〇〇年代と伝えられ、三世 紀にわたって伝承されている貴重な文化財である。 |
Traditional Japanese Life