「村社」カテゴリーアーカイブ

[静岡県南伊豆町] 三島神社(妻良)

社名三島神社(みしまじんじゃ)
三島宮
所在地
三島神社

静岡県賀茂郡南伊豆町妻良828ー1
社格延喜式内(大津往命神社)
延喜式内(阿米都加多比咩命神社)
村社
御祭神大津往命
神紋
摂末社
情報源三島神社 – 静岡県神社庁
訪問記訪問日: 2016/08/26
南伊豆から西伊豆に移動中。妻良の坂を下る途中に発見。
境内入口には台輪鳥居、鳥居扁額には「三島宮」。
この三島宮の文字が芸術的。神社の文字は業界有名人なんかの達筆なものが多いけれど、ここのはそういうのではなく、ほんと、近代芸術的である。
鳥居も鳥居で近代芸術的で、鳥居の笠木は黒く、笠木下の島木は朱色。柱は薄いピンク色。、根巻は銅の緑。なんともごちゃごちゃな色センス。これは何かしら意味のある色なのか、はたまた氏子の趣味なのか。扁額のみならず鳥居自体も面白い。その脇にちょこんと鎮座する狛犬はちょっと傷みが激しい感じである。
足部分が欠損したのか石膏のようなもので上塗り。境内に入ると拝殿。でも、ここは伊豆なので伊豆方式で脇から裏手に。
石段を登り覆殿へ。
階段脇には狛犬。こちらは新しいようで元気いっぱいである。覆殿脇には、前任と思われる傷みの相当に激しい狛犬、それに不明の祠がいくらか見える。

南豆風土誌によれば、正中二年の社記があるとのこと。

御朱印
由緒書北条水軍妻良衆の力石

重量280Kg
戦国時代、伊豆を平定した北条早雲の傘下に入った妻良衆は村田一之助を頭領に仰ぎ、北条家中でも屈指の水軍であった。
彼らは、北条氏治世100年の中で伊豆衆と呼ばれ、その剛勇ぶりはつとに有名であった。
その勇士達が、平素身体鍛錬のためにかつぎ、差し上げたのがこの石で、その名も力石と名づけられ今日まで伝えられている。
特に、北条氏と豊臣氏の戦雲急な頃、妻良沖にて敵の斥候一人を捕らえ、北条氏直から感状を贈られ、その武勇を賞賛されたのであるが、この人などは、この石をいとも軽々と差し上げたと伝えられている。
昭和60年5月

[静岡県南伊豆町] 三島神社(蝶ケ野)

社名三島神社(みしまじんじゃ)
所在地
三島神社

静岡県賀茂郡南伊豆町蝶ケ野270
社格延喜式内(多祁伊志豆伎命神社)
村社
御祭神事代主命
神紋
摂末社
情報源三島神社 – 静岡県神社庁
訪問記訪問日: 2016/08/26

地図には神社があるが、どの道を進んで到達したらいいのか。イマイチ分かりにくく、何度か近所まで来たことはあったが達することができなかった神社。
川沿いに進む道を手当たり次第に進み、ようやく。

川沿いの石垣の上に小さな境内。白色の八幡鳥居。
その先に朱色の社殿。
どうも伊豆の神社の社殿は自分のイメージする神社とは形が異なるので違和感がある。
鳥居がなければ小さい民家というか、物置というか、そういう印象の社殿が多い。
ここも似たような感じ。

南豆風土誌の、三坂村蝶ケ野字川久保の三島神社と記載されている部分が当社であると思われる。
それであれば、創建など詳細は不詳であるが、祭神は事代主命となるようである。

御朱印
由緒書

[埼玉県入間市] 春日神社(春日町)

社名春日神社(かすがじんじゃ)
所在地
春日神社

埼玉県入間市春日町1丁目6−1
社格村社
御祭神祭神
天児屋根命
比売神
武甕槌命
経津主命
相殿
素盞嗚尊
大市姫命
倉稲魂命
火産霊命
白山姫命
神紋
摂末社護国神社
情報源春日神社 | 埼玉県の神社
訪問記訪問日: 2016/07/10

大通りから路地を入る。地図を見ながらだけれど、本当にこの道に入っていいのかどうか躊躇しながら進む。
進むと神明鳥居がお出迎え。
長い参道は途中で道路に分断されており、微妙な感じになっているが、そこそこの大きさ。

本殿裏には護国神社。

御朱印
由緒書春日神社御由緒
一、現在地 入間市春日町一丁目六番一号
二、由緒 当春日神社の由緒は詳らかではないが、古くか
らの言い伝えによると元仁元年甲申八月(一二二四年)
大和国(奈良県)春日大社より勧請され、その後、宝暦二年
壬申(一七五二年)に御社殿再建されたと伝えられる。昔は
産土神として崇められ明治二年の太政官布告令により
神仏分離が行われ、明治五年に指定村社に列せられた。
当神社は元は西山の地(現所在地の西方数百メートル)の
古木蒼然とした森の中に在ったが明治五年に、この地(黒
須村字久保田七七三番地)移築され、その後、明治四十五年
に稲荷神社(字秋津より)氷川神社(字久保田)愛宕神社(字沓
切場)白山社、八雲神社(字後)から併合、合祀されて黒須の鎮
守として篤い崇敬を集めて来たものです。
三、御祭神
天児屋根命 比売神 武甕槌命 経津主命
御合神
素盞嗚尊 大市姫命 倉稲魂命 火産霊命 白山姫命
四、社殿及び建造物 敷地 四、四〇〇平方米
本殿 二平方米 切妻造
覆殿 十一平方米 切妻造
拝殿 三十平方米 入母屋向拝付
五、特色
年三回の祭典には賛同(一〇〇米)の間に崇敬者の奉納し
た恩神燈(提灯)九六基を点灯し神域を照らし誠に荘厳で
ある。
六、春日神社への祈願
縁むすび 家内安全 商売繁盛 交通安全 厄除祈願
合格祈願等の御神徳を仰ぎ奉り祈願する。
由緒書護国神社の由来
昭和二十九年十月戦没者遺族会の
発願により当神社の境内の一隅に
護国神社が建立され氏子出身の
日露戦争シベリア事変日支事変
大東亜戦争で出征し護国のために
華した百十五柱の英霊を慰める

[静岡県西伊豆町] 神明神社(海名野)

社名神明神社(しんめいじんじゃ)
海名野神明神社(かいなのしんめいじんじゃ)
所在地
神明神社

静岡県賀茂郡西伊豆町仁科574(旧:仁科村浜字海名野)
社格村社
(延喜式内 仲大歳神社の論社は否定)
御祭神天照皇大神
天照皇太神(新南豆風土誌による)
神紋丸に五三の桐
摂末社
情報源人形三番叟、県文化財に 海名野神明神社―西伊豆 - 伊豆新聞
西伊豆町誌 資料 第一集 神社・寺院並びに棟札編
新南豆風土誌
訪問記訪問日: 2016/05/02

せせらぎの湯の奥。
西伊豆特有の細い道をちょっと心配しつつ進む。

西伊豆町の無形民俗文化財「海名野神明(かいなのしんめい)神社の人形三番叟」として名の通った神社。
とはいえ、今はその季節ではなく、ただただ、緑に勢い付く木々の間にひっそりと佇む社殿が神聖な空気をかもしだすだけである。

当初は「式内社・仲大歳神社の論社」ということもあって訪問したのだが、社殿に貼られていた由緒書き(というか、西伊豆町誌 資料 第一集 神社・寺院並びに棟札編のコピー)によると、「当社は曾て、式内社仲大歳神社とされた説があったがそれは謬である。」と真っ向から否定されていた。まぁ、創立年月日は不明であるものの「長禄元年(一四五七)」の記録があるということだから、500年以上の歴史があるのは間違いなく、長い間、住民の生活を見守ってきた重要な神社であることは間違い無いだろう。三世紀も守られ続けている人形三番叟もそれを裏付けている。

御朱印
由緒書西伊豆町誌 資料 第一集 神社・寺院並びに棟札編

神明神社

西伊豆町中五四七番地(海名野)

祭神 天照皇大神

環境
国道一三六号の仁科浜橋付近を基点とする主要地方道
西伊豆〜伊東線を仁科川の右岸を遡ること約一・五キロ
メートル中村の集落がある。ここは江戸時代の中村の名
が残っているところである。海名野橋のバス停付近から
橋を渡り石畳の坂道を登り海名野の家並みを通り抜け山
道にかかるところ右に谷川が流れ、左に神明社の石段が
見える。神域は集落から一段と高い場所にあり、杉木立
を背にして本殿が建てられている。前には、天然記念物
に指定されている一対のナギの大木が立っている。右側
は庁屋で、秋の祭りには民俗文化財に指定されている三
番叟が上演される。小規模ながら旧村社にふさわしい環
境にある。

縁起
創立年月日は不詳。かつては火災に遭って多くの記録
を失っている。
『豆州志稿』によれば、長禄三年(一四五九)の棟札に「神名
難分、本願須田対島頭」とあり。また、慶長三年(一五九八)
の札に「須田図書之助経営」とされているが、この二つの
棟札は現存していない。明治十八年調査佐波神社祠官間
野斉宮の報告によれば、長禄元年二月十一日(一四五七)
再建より重修の棟札ありと記されているが長禄元年の棟
札も現存しない。以上の諸記録の中でもっとも年代の古いも
のは長禄元年(一四五七)である。
現在当社には十二点の棟札が残されている。その中で
もっとも古いと思われるものに次のものがある。

本願須田図書助
豆州仁科庄海名野村  同仇左衛門
大工鍛冶関采女正政繁
奉建立伊勢神明御宝殿前諸願成就皆令満足者也
大工窪田彦左衛門吉次 鈴木藤衛門
干時慶長拾五年庚戌九月十日敬白 祢宜六左衛門
その他、建立、重修、造立等に関する記録を遺した棟
札の主なものとして次ぎのものがある。
1.奉建立勢陽天照大神宮与流氏諸願成就必矣
干時萬治二仲冬念五鳥(一六五九)
2.奉造立神明宮御神殿
延享三年十月十三日(一七四六)
3.宝暦五年九月十六日(一七五五)氏子四十九人が門前
の土地その地を献納
4。文化三年七月吉日(一八〇六)
奉修大峯乗灯護摩供社頭安全枚
5。明治六年十月
奉斉神明社、合並社(栗原天神社・寺川駒形神社・岩谷戸八
幡社・堀坂熊野社・一色山神社・祢宜畑子神社・白川三王
社・大城八幡社・宮ケ原天神社)(註村社となる)
6.大正九年十一月四日
鳥居新設
7.昭和四年十月七日
奉納神明社昇格記念
8.昭和二十七年十一月四日
奉斉神明復興記念
9.年代不詳(大正末期から昭和初期)
奉鎮斉
神明社改築拝殿
当社は曾て、式内社仲大歳神社とされた説があったが
それは謬である。仲は中村に由来するとしたのであろう
が、往時中村は仁科庄の本郷に含まれており、(本郷には
既に式内佐波神社があり)村に式内社が二社存在するこ
とはないのである。また口碑によれば「当社は式内にして、
須田対島頭守広創建」とあるが須田対島頭守広は文亀、大
永の十六世紀初頭の人であって、式内社を定めた延喜式
の成立は十世紀であり、須田氏が式内社を創建すること
はあり得ないことである。
当社において、毎年十一月の秋祭りに奉納される三番
叟は初演が享保年間即ち一七〇〇年代と伝えられ、三世
紀にわたって伝承されている貴重な文化財である。