「社格」カテゴリーアーカイブ

[東京都中野区] 打越天神北野神社(中野)

社名打越天神北野神社(うちごしてんじんきたのじんじゃ)
所在地
打越天神北野神社

東京都中野区中野5丁目8−1
社格無格社
御祭神菅原道真(すがわらのみちざね)
神紋梅鉢紋
摂末社天神伏見稲荷神社(てんじんふしみいなりじんじゃ) – 宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
情報源打越天神北野神社|中野区中野の神社
訪問記訪問日: 2016/06/06

所用で中野まで来たついでに参拝。
住宅街の中にひっそりと鎮座。
落ち着いた雰囲気でいかにもという神社の空間が残されています。

入り口の神明鳥居をくぐると目の前に社殿。右側には神輿庫と思われる建物、左には境内社である天神伏見稲荷神社。
氏子の方が天神伏見稲荷神社の鳥居などを塗りなおしておられました。

参拝。

人通りの激しい中野駅前から徒歩数分。喧騒から離れ鎮守が守られている。
なんか、そういう所が日本っぽいなぁ。というか、中央線沿線の空気感だなぁ。

御朱印
由緒書

[静岡県西伊豆町] 神明神社(海名野)

社名神明神社(しんめいじんじゃ)
海名野神明神社(かいなのしんめいじんじゃ)
所在地
神明神社

静岡県賀茂郡西伊豆町仁科574(旧:仁科村浜字海名野)
社格村社
(延喜式内 仲大歳神社の論社は否定)
御祭神天照皇大神
天照皇太神(新南豆風土誌による)
神紋丸に五三の桐
摂末社
情報源人形三番叟、県文化財に 海名野神明神社―西伊豆 - 伊豆新聞
西伊豆町誌 資料 第一集 神社・寺院並びに棟札編
新南豆風土誌
訪問記訪問日: 2016/05/02

せせらぎの湯の奥。
西伊豆特有の細い道をちょっと心配しつつ進む。

西伊豆町の無形民俗文化財「海名野神明(かいなのしんめい)神社の人形三番叟」として名の通った神社。
とはいえ、今はその季節ではなく、ただただ、緑に勢い付く木々の間にひっそりと佇む社殿が神聖な空気をかもしだすだけである。

当初は「式内社・仲大歳神社の論社」ということもあって訪問したのだが、社殿に貼られていた由緒書き(というか、西伊豆町誌 資料 第一集 神社・寺院並びに棟札編のコピー)によると、「当社は曾て、式内社仲大歳神社とされた説があったがそれは謬である。」と真っ向から否定されていた。まぁ、創立年月日は不明であるものの「長禄元年(一四五七)」の記録があるということだから、500年以上の歴史があるのは間違いなく、長い間、住民の生活を見守ってきた重要な神社であることは間違い無いだろう。三世紀も守られ続けている人形三番叟もそれを裏付けている。

御朱印
由緒書西伊豆町誌 資料 第一集 神社・寺院並びに棟札編

神明神社

西伊豆町中五四七番地(海名野)

祭神 天照皇大神

環境
国道一三六号の仁科浜橋付近を基点とする主要地方道
西伊豆〜伊東線を仁科川の右岸を遡ること約一・五キロ
メートル中村の集落がある。ここは江戸時代の中村の名
が残っているところである。海名野橋のバス停付近から
橋を渡り石畳の坂道を登り海名野の家並みを通り抜け山
道にかかるところ右に谷川が流れ、左に神明社の石段が
見える。神域は集落から一段と高い場所にあり、杉木立
を背にして本殿が建てられている。前には、天然記念物
に指定されている一対のナギの大木が立っている。右側
は庁屋で、秋の祭りには民俗文化財に指定されている三
番叟が上演される。小規模ながら旧村社にふさわしい環
境にある。

縁起
創立年月日は不詳。かつては火災に遭って多くの記録
を失っている。
『豆州志稿』によれば、長禄三年(一四五九)の棟札に「神名
難分、本願須田対島頭」とあり。また、慶長三年(一五九八)
の札に「須田図書之助経営」とされているが、この二つの
棟札は現存していない。明治十八年調査佐波神社祠官間
野斉宮の報告によれば、長禄元年二月十一日(一四五七)
再建より重修の棟札ありと記されているが長禄元年の棟
札も現存しない。以上の諸記録の中でもっとも年代の古いも
のは長禄元年(一四五七)である。
現在当社には十二点の棟札が残されている。その中で
もっとも古いと思われるものに次のものがある。

本願須田図書助
豆州仁科庄海名野村  同仇左衛門
大工鍛冶関采女正政繁
奉建立伊勢神明御宝殿前諸願成就皆令満足者也
大工窪田彦左衛門吉次 鈴木藤衛門
干時慶長拾五年庚戌九月十日敬白 祢宜六左衛門
その他、建立、重修、造立等に関する記録を遺した棟
札の主なものとして次ぎのものがある。
1.奉建立勢陽天照大神宮与流氏諸願成就必矣
干時萬治二仲冬念五鳥(一六五九)
2.奉造立神明宮御神殿
延享三年十月十三日(一七四六)
3.宝暦五年九月十六日(一七五五)氏子四十九人が門前
の土地その地を献納
4。文化三年七月吉日(一八〇六)
奉修大峯乗灯護摩供社頭安全枚
5。明治六年十月
奉斉神明社、合並社(栗原天神社・寺川駒形神社・岩谷戸八
幡社・堀坂熊野社・一色山神社・祢宜畑子神社・白川三王
社・大城八幡社・宮ケ原天神社)(註村社となる)
6.大正九年十一月四日
鳥居新設
7.昭和四年十月七日
奉納神明社昇格記念
8.昭和二十七年十一月四日
奉斉神明復興記念
9.年代不詳(大正末期から昭和初期)
奉鎮斉
神明社改築拝殿
当社は曾て、式内社仲大歳神社とされた説があったが
それは謬である。仲は中村に由来するとしたのであろう
が、往時中村は仁科庄の本郷に含まれており、(本郷には
既に式内佐波神社があり)村に式内社が二社存在するこ
とはないのである。また口碑によれば「当社は式内にして、
須田対島頭守広創建」とあるが須田対島頭守広は文亀、大
永の十六世紀初頭の人であって、式内社を定めた延喜式
の成立は十世紀であり、須田氏が式内社を創建すること
はあり得ないことである。
当社において、毎年十一月の秋祭りに奉納される三番
叟は初演が享保年間即ち一七〇〇年代と伝えられ、三世
紀にわたって伝承されている貴重な文化財である。