「徳川家康公」タグアーカイブ

[東京都台東区] 上野東照宮(上野公園)

社名東照宮
上野東照宮(うえのとうしょうぐう)
所在地
上野東照宮

東京都台東区上野公園9−88
社格府社
御祭神徳川家康公(とくがわいえやす)(東照大権現)
徳川吉宗公(とくがわ よしむね)
徳川慶喜公(とくがわ よしのぶ)
神紋三ツ葉葵
摂末社栄誉権現社(御狸様)
情報源上野東照宮公式ホームページ
訪問記訪問日: 2017/11/09

ちょっとした用事があり、上野動物園。上野動物園のモノレール乗り場の前付近で、「上野東照宮」の看板を発見。
そういや、だいぶ長いこと詣でてないな。と思い立ち参拝。

公園内にある神社で、東照大権現を祀る神社。
東照大権現は言わずと知れた、江戸幕府の初代 徳川家康公。
各地にある東照宮と同じである。
本社も正式名称は東照宮であるが、各地の東照宮と区別するために地名を冠しているとのこと。

歴史的な物語の人物を祀る神社ではなく、そこには確実に権力者として実在し、その末裔が時代を治めていた人物を祀る神社だけあり、貢がれ納められているものがすごい。特に石灯籠。
立派なだけではなく、競うように納められたのか、数もかなりのもの。

社殿は金を基調とした豪華な作りとなっており、豪奢。
華美すぎず下品にはなっていないと評する人も多いが、個人的には成金趣味に見えていただけない。

内部拝観は有料。初穂料500円。

外から見るのと、中から見るのでは印象が異なる。一度は中から見てみるのが良さそうな印象。
まぁ、二度はいらないかもだけど。

中に入ると境内社もある。狸の神社。語呂合わせであろう「他を抜く」につながることから勝負の神様となっているようだ。

御朱印は社務所にて。300円の初穂料。牡丹の季節などは特別な御朱印となる、また、繁忙期には書き置きになるとの事。

御朱印あり(300円) – 受付は9:30-16:00
由緒書東照宮略記

祭神

徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜

縁起

元和二年二月見舞いのため駿府城にいた藤堂
高虎と天海僧正は危篤の家康公の病床に招かれ
三人一処に末長く魂鎮まるところを造って欲しいと
遺言された。そこで高虎の屋敷地であるこの上野
の山に寛永四年(一六二七年)に本宮を造営した。
その後、将軍家光はこの建物に満足出
来ず慶安四年現在の社殿を造営
替えし、江戸の象徴とした。

由緒書栄誉権現

四国八百八狸の総師。
奉献された大奥で暴れ追放後、大名、旗本、諸家を潰し、大正年間 本宮に奉献された悪行 狸、他を抜く(たぬき) 強運開祖として信仰が厚い

縁起日は五の日

[東京都千代田区] 太田姫稲荷神社

社名太田姫稲荷神社(おおたひめいなりじんじゃ)
一口稲荷神社(いもあらいいなりじんじゃ)
所在地
太田姫稲荷神社

東京都千代田区神田駿河台1丁目2−3
社格村社
御祭神宇迦之御魂神
菅原道真公
徳川家康公
金山彦命
神紋丸に細桔梗紋 – 太田道灌の家紋
摂末社
情報源
訪問記訪問日: 2017/06/07
御朱印
由緒書太田姫稲荷神社縁起古社名  一口(いもあらい)稲荷神社
御祭神  宇迦之御魂神
菅原道真公
徳川家康公
金山彦命
鎮座地  千代田区神田駿河台一丁目二番地
氏子区域 千代田区神田駿河台一、二、三、丁目
千代田区神田錦町一丁目、小川町二丁目太田姫稲荷神社は 極めて豊かな霊験伝承と
古い由緒をもつ神社であります
「駿河台文化史」(昭和十年神田史跡研究会)によると当神社の縁起は九世紀に始まります
詩才を白楽天に比されるほどの詩人参議小野篁(おののたかむら)が承和六年はじめ
伯耆国(ほうきのくに=鳥取県)名和港を出港してまもなく海が大そう荒れ狂い身の
危険を感じたため 篁は正装をして船の舳に座り熱心に普門品(ふもんぼん=観音経)を
唱えていると 白髪の老翁が波上に現れて「荒波から命を守つやるが疱瘡(天然痘=
大流行し治療法がなく非常に恐れられていた)を患えば一命が危ない われは
太田姫の命である わが像を常にまつれば この病にかかる事はないであろう」と告げ
波間に姿を消した そのお告げを護り自ら翁の像を刻み 護持していた のちに山城国
(京都府)の南にある一口の里に神社を祝い祭った
江戸の開祖として知られる太田資長朝臣(後の道灌)の最愛の姫君が思い疱瘡にかかり
絶望の中 人伝に一口稲荷神社の故事を聞き急使をつかわせ祈願 使者は祈祷の一枝と
幣を授かり帰ると 十直の病が癒えた資長朝臣は崇敬の念篤く城内本丸に一社建立し
姫君と共に深く敬拝した ある時この城の鬼門を守るべしとの神託があり 鬼門に移して
太田姫稲荷大明神と奉唱するようになった 長禄元年(一四五七年)のことである
慶長八年(一六〇三)八月 徳川家康公が江戸城へ入られた後 慶長十一年の江戸城
大改築の際 城内より西丸の鬼門にあたる神田駿河台東側に移されこの坂を一口坂(いも
あらいざか 後に鈴木淡路守の屋敷が出来たので淡路坂ともいう)と呼ばれた その後
代々将軍が崇拝し 修理造営は徳川家が行ったと伝えられている
明治五年(一八七二)神社制度により神職司掌とする
例祭日は毎年四月十八日と定められ 後に五月第二土曜日となる
大正十二年(一九二三)関東大震災で類焼 御神体のみ無事に湯島天神に避難する
大正十四年(一九二五)仮社殿が落成
昭和三年(一九二八)氏子各位の寄進により 本社殿 神楽殿 御水舎 神輿庫 社務所
鳥居等新築される
昭和六年(一九三一)御茶ノ水駅 両国駅間の総武線建設のため社地大半を収用され
鉄道省より換地として 現在の地を神社敷地に指定 一切の建築物をそのまま移転
して今日に至る