社名 | 火産霊神社(ほむすびじんじゃ) |
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所在地 | 静岡県賀茂郡松崎町吉田16 |
社格 | 静岡県神社庁神社等級 一五等級神社(昭和三十五年十月一日) |
御祭神 | 天御中主命(あめのみなかぬしのみこと) 手置帆負命(たおきほおいのみこと) 天彦狭知命(あめのひこさしりのみこと) |
神紋 | – |
摂末社 | 津島神社 稲荷神社 |
情報源 | – |
訪問記 | 訪問日: 2016/11/23 Google Maps上では、「三宝大荒神神社」となっている神社。 松崎から峠に向かい、エネオスの手前の路地を左に入る。 軽自動車であれば余裕だけど、小型車以外は立ち入らない方が良いレベルの道。 直進し、行き止まりを左へ。細く心配になるけど道なりに進むと「吉田公民館」が左手に見える。 そこを右に折れて進む。行き止まりの場所が該当。 苔むした階段を登ると鳥居、さらに階段を登り覆殿へ。 扉は鍵がかかっておらず、参拝時には扉を開けて良いようなので、開けて参拝。 覆殿には鈴ではなく、鰐口が吊るされています。 地域では荒神と称されることもある様だし、Google Maps上では三宝大荒神神社となっている様でもあるので、扱いとしては三宝荒神の様にされているのかもしれない。役小角が伊豆に縁があるというのも関連するのかもしれないけれど。 いずれ、そうだとすると、一礼、三拍手、一礼で参拝すべきだったのかもしれない。 また、【資料】松崎町史資料編 第一集 神社・寺院編には、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)・手置帆負命(たおきほおいのみこと)・天彦挟知命(あめのひこさしりのみこと)の3柱が祭神であるとされているけれど。神社名である火産霊は、ご存知の通り、神産みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれた火の神、軻遇突智(かぐつち)の事。 正式な神社名や周囲での呼び名から考えても、火の神を祀る神社である事は間違いないだろう。ただ、資料にある祭神と一致しないところが気になる感じではある。 過去の資料をもうちょっと追いかけると何かわかるのかもしれない。 覆屋内の境内社には小さな本殿。中には津島神社と仲良く並んで牛頭天王の大麻収められておりました。これが資料にある津島神社なのでしょう。 島津信仰は牛頭天王なので、そういう組み合わせなのでしょうね。 |
御朱印 | なし |
由緒書 | (【資料】松崎町史資料編 第一集 神社・寺院編) —火産霊神社祭神 天御中主命(あめのみなかぬしのみこと) 手置帆負命(たおきほおいのみこと) 天彦挟知命(あめのひこさしりのみこと)由緒 創立期は不詳、吉田集落の北側の小高い地に、南面する社で荒神と称されることもある。それは社名の火産霊神社が日本書紀に見られ、火をつかさどる神で、保温、炊事、照明、冶金その他諸般の恩恵を与え、また一方その怒りにふれると、たちまち非常の災害に見舞れると信じられたことに由来するものと思われる。 豆州志稿によると「寛永五年(一六二八)ノ上梁文アリ又三尺許リ(約九〇センチメートル)ノ板二枚ニ梵字七字ツツ、刻シタルヲ蔵ス古物也」とあるが今は見当たらない。 天保年間(一八三〇〜四四)火災により消失。嘉永六年(一八五三)再建の棟札がある。 一般に火の神は女性だとされており、本社は御産の神様としても信仰されている。妊婦は社にあげてある麻を少量いただいてかえり、枕元に置いて安産の御守りとする。無事出産後、この麻は胎盤と共に埋める。お礼として新しい麻を神社に奉納する風習がある。 殿内に明治三〇年(一八九七)六月の俳句の額がある。 例祭日 二月一一日 例祭日の行事 弓引き、戦時中も欠かしたことのない神事である。 弓は新竹の丸竹で二張り、弓弦は、かつては安産祈願の御礼に奉納された白麻をよりあわせたものを用いた。矢も新竹の小竹で大小各四本、的は大が一尺五寸(約四五センチメートル)小は約一尺(三〇センチメートル)距離は五間(約九メートル)七間(一二・七メートル)弓太郎(弓引き役)は十五歳の少年二名で、各一〇射し命中率が高い程、五穀豊穣と無病息災の厄除けが達成されるとされている。昔は弓太郎をつとめると、以降村人足など一人前の扱いを受けた。従って昔の元服の名残りと思われている。 殿字 拝殿 なし 覆殿 造立不詳 本殿 嘉永六年(一八五三)九月再建 社務所 かつてあったという跡がある 境内社 津島神社 稲荷神社 石宮(祭神不詳) 庚申塔二基 棟札 一 嘉永六年(一八五三)九月 上棟 二 嘉永六年(一八五三)九月 再建遷宮 三 文久二年(一八六二)九月 鳥居再建 四 明治三十一年(一八九八)二月 奉修三神 |
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