白河町遊廓(向新蔵)
なんとなく『全国遊廓案内』を眺めてみて、福島県の部にあった「白河町」。次はなんとなくでこれを調べてみようかなぁ。と、なんとなくで調査を開始してみました。
『全国遊廓案内』には、
白河町遊廓 は福島県白河町に在って、東北本線白河駅で下車する。
白河は阿部氏の旧城下で、寛政の頃には松平楽翁(白河楽翁)公が治められたので、種々な事蹟が残ってゐる。人口は約二万、城址は阿武隈川に望んで眺望がよい。戊辰の役には、会津兵が拠って大いに官軍を悩ました処だ。有名な白川の関所跡は、約二里程南へ行った所に在る。其の処には白河神社もある。古い歴史を持った土地丈けに、遊女屋も可成古くから在ったものらしいが判明して居ない。目下貸座敷が十四軒あって、娼妓は約七十人居る。店は陰店を張って居て全部居稼ぎ制だ。勿論廻し花は取って居る。費用は御定りが二円五十銭、三円、三円五十銭等あって、台付きである。三円五十銭は本部屋だ。一泊も出来る。『全国遊廓案内』,日本遊覧社,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1453000 より
地誌系を探してみる
こういう時は、もう適当に地誌の類を乱れ読みしてみればいいかと思います。とりあえず、いつもの国立国会図書館デジタルコレクションをこねくり回してみます。
『白河案内』(熊田黄雲 編)
適当に国立国会図書館デジタルコレクションをこねくり回してみたら、『白河案内』(熊田黄雲 編)なる資料を発見。この中を見ると、次のように書かれています。
●遊廓 新蔵町の南端、谷津田川に一橋あり、新橋といふ、是より例
の郭内にして、一名新地と稱す、石造の大門を入れば、紅樓翠閣甍を併
べ、眞に不夜城の觀あり、其内重なるものは、萬歳樓、箔樓、角樓等に
して、外數軒あり、熊田黄雲 編『白河案内』,奧村書店,1911. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1081848 より
ここに書かれている「新蔵町の南端、谷津田川に一橋あり、新橋」は現在でも健在です。
この記述を見るに、この新橋という橋を渡った先に、萬歳樓、箔樓、角樓等といった遊廓が軒を並べていた模様です。
『白河案内』(白河保勝会 編)
見ていると、同名の『白河案内』(白河保勝会 編)なる資料もあって、こちらは
◎遊郭 新蔵町の南端、八津田川に一橋あり、新橋といふ。疑鐵の釣
橋にして、一見東京吾妻橋の趣あり。是を渡れば、例の遊郭にして、新
地と稱す。石造の大門を入れば、紅樓翠閣甍を併べ、眞に不夜城の觀あ
り。此内重なるものは、萬歳樓、角樓、箔樓、花屋にして他數十軒あり。
又
◎料理店 の重なるものは、本町内花樓、同箔柳亭、同自由亭、廓内
萬木樓、新蔵若狭、同清光亭、同酒井樓等にして其他
◎藝妓屋 數軒あれども、著著不粹にして、花柳の状況に迂なり、依
て略す。白河保勝会 編『白河案内』,奥村市右衛門,明34.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/763308 より
こちら、新橋は東京吾妻橋の趣があると書かれているが、こんな小さな橋で趣も何も…という印象があれど、基本的に書いてあることは一緒。遊廓も萬歳樓、角樓、箔樓、花屋とほぼ同様である。
ここに書いてあることを真に受けると、遊廓はこの橋を渡ってすぐ南側。現在の地図でいう「向新蔵」が該当エリアという事でしょうか。
『白河市史』
他には何かないかなぁ。と見ていたら、『白河市史』下(白河市史編さん委員会 編)を発見。こちらには、そこそこ詳しく書かれています。
一五年(一八八二)の大火を契機に、飯売女を抱えた本町の旅籠屋は、一部は転業し、一部は新地(向新蔵)に移る。一片の「解放令」は廃娼をもたらさず、人身売買の身代金は「前借」となり、妓楼は「貸座敷」という形で営業された。はじめ箔屋・辻屋(後に大正楼)が、次に角屋(清風楼)・万年楼と逐年数を増し、売春市場としての遊廓を形成していった。
白河市史編さん委員会 編『白河市史』下,白河市教育委員会,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9569422 より
とあって、維新前の時代は飯売女を抱えた旅籠屋が本町に並んでいた旨の記述があります。 これは本町のR294沿いのエリアが該当ですね。
それにしても、この史料には細かい事が書いてあるのですが、
本町の旅籠屋には年季奉公―という人身売買-の飯売女(宿場女郎・下女)が九八名いたが、うち六四名は越後蒲原郡であり、年令別には七才から一〇才まで六名・一一―一五才二二名・一六―二〇才三九名・ニ一―ニ五才二九名、一旅籠屋で一~七名を雇傭している。
白河市史編さん委員会 編『白河市史』下,白河市教育委員会,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9569422 より
とあって、飯売女として7歳から10歳までの6名がいるという記述。一瞬「おいっ!」って思いましたが、ここの記述は飯売女として宿場女郎と下女を加えているのでちょっとおかしい感じに読み取れます。この人数全員が宿場女郎というわけではなく、純粋な下女もいたものと思われます。さすがに7歳の宿場女郎は当時としても考えられないものでしょう。「年季奉公―という人身売買-」という括りは正しいでしょうが、記述が「娼妓(遊女)解放令」にちなんでいるので、これは書き方に難ありと言わざるを得ないですね。もっと考えると、実際には7歳で下女となっていただけで、実際にはそれよりも若い子供がいた可能性もありますからね。「7歳までは神のうち」と呼ばれた時代なので、他の宿場の記録でも見るように、7歳までは養女のように育て、そこから入っていく形もあったのではないかと推測できます。
ちょっと書き方にミスリードを誘う要素があって、思わず引っ掛かりましたわ。
さてさて、それはさておき。今回のポイントは「一部は新地(向新蔵)に移る。」という記述。予想通りで向新蔵地内に移ったという事なんですね。この点にはさらに詳しく記載があり、
二八年には向新蔵の貸座敷業者は一一戸であった。同年の遊廓絵図面(遠藤文書)によれば、谷津田川の新橋と土橋より南行する道路(当時は作場道―農道)の間の一町三反(宅地八反余・畑四反余)が廓として特殊な区域をなし、境界は高さ七尺五寸の丸太材を八寸間隔にうった柵(表通りは板塀・裏通りは棚だけ)を廻らし、二ヶ所に高さ一丈二尺・柱一尺四寸角で扉のついた木戸門があった。
白河市史編さん委員会 編『白河市史』下,白河市教育委員会,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9569422 より
新橋から土橋とあり、土橋は新橋の西側に一本脇にある橋。白河駅の前にある通りをまっすぐに進んだ場所という事で、停車場から見ると、こちらが正面玄関なのかもしれませんね。
『白河案内』(熊田黄雲 編)ふたたび
この写真を見るに、通りに対して両面に店が張って居る状況であることがわかります。
そうなると、新蔵通り、小峰通りの間の道がメインストリートって話になるんでしょうね。
Googleストリートビュー
こう見ると、風俗街のナレの果て感はあれど、遊廓の遺構はもうないっぽいねぇ。
まぁ、売春防止法(昭和31年法律第118号)からの遊廓の崩壊から何年たってるんだ?って話ですよね。
訪問してみる?
もう遺構らしいものはあまりなさそうではあるけれど。
趣のある建物などはいろいろありそうなので、近いうちに訪問したい感じですね。
使用した資料
『全国遊廓案内』,日本遊覧社,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1453000
熊田黄雲 編『白河案内』,奧村書店,1911. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1081848 白河保勝会 編『白河案内』,奥村市右衛門,明34.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/763308
白河市史編さん委員会 編『白河市史』下,白河市教育委員会,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9569422
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