松戸町遊廓
全国遊廓案内を見ていたら、「松戸」って文字を発見。
松戸に遊廓があった模様。確かに街道筋で舟運の要所だし。そのくらいあってもおかしくはない…。
でも、松戸は用事があってよく行っていたけれども。そんなことは全く気が付かなかったなぁ。
と思って、ちょっと調査してみました。
全国遊廓案内
松戸町遊廓
松戸町遊廓 は千葉県東葛飾郡松戸町字平潟に在つて、常磐線松戸駅へ下車して西北へ約五丁の処に在る。東京府と千葉県との境に在る町で、江戸川の川岸に臨んだ浜街道の要路に成つて居り、水陸の便が善い。松戸の相模台には競馬場があり、県農事試験場があり、又日本唯一の園芸学校もある。川岸は魚釣りには善い場所がある。寛永年間には沢山の飯盛女が居たものだつたが、今日の遊廓は其の後身である。目下貸座敷が十三軒あつて、娼妓は百十五人居るが、秋田県、山形県の女が多い。店は全部写真式で陰店は張つて無い。娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興が廻し制で通し花は取らない。費用は一泊甲五円、乙四円、丙三円で各台の物が附く。短時間遊びは二円でも出来る。娼楼には、喜楽楼、第一鶴宝来楼、第二鶴宝来楼、蓬莱楼、若松、浜名家、叶家、福田屋、百年、鈴金、三井家、第二九十九、一元等がある。
「松戸女郎衆はいかりか綱か、登り下りの船とめる」芸妓は二時間二円六十銭。
『全国遊廓案内』,日本遊覧社,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1453000 より
これを整理すると…
- 松戸駅から北西方向に500~600mほどの距離にある千葉県東葛飾郡松戸町字平潟。
- 昭和5年頃にあった妓楼は喜楽楼、第一鶴宝来楼、第二鶴宝来楼、蓬莱楼、若松、浜名家、叶家、福田屋、百年、鈴金、三井家、第二九十九、一元の13軒。
- 娼妓は115人。出身地は秋田県、山形県が多い。
- 費用は一泊で5円/4円/3円。時間遊びは2円。
ということのようです。
千葉県東葛飾郡松戸町字平潟に在つて、常磐線松戸駅へ下車して西北へ約五丁の処
地図で「千葉県東葛飾郡松戸町字平潟」を探してみるところからスタート。
普通に考えてみれば、「松戸市平潟」なる地名があるのかな?と探してみるものの見つからず。
どうも現在は地名としてはもう無いようです。
でも、
公園の名前などには「平潟」の名前が残っているようです。
この公園。駅から徒歩で約1550m。ちょうど5丁の表記に一致しますし。北西の方角というのも一致します。
この辺りなんだろうなぁ。
松戸を歩き誌す 第8号
さて、そろそろ本格的に探してみようと思って、図書館でいろいろな資料を確認。
そこで見かけた「松戸を歩き誌す 第8号」に面白地図を発見。
この資料は、いわゆる「聞き書」で、昭和12~13年ごろの記録をしているものの様です。
ここにあった地図を簡単に書き起こし、文字で記載されている変遷などを反映させるとこんな感じ。
キーワードとして使用できそうなの来迎寺、排水機の文字。
これはわかり易く。
来迎寺は「松戸市松戸2175」にあるお寺。排水機は「樋野口排水機場」を指していると思われ、来迎寺脇にある鳥居は平潟神社であろうと思われます。
そうなると、ここは日大歯学部の寮を入り口として、直線に伸びる一画であると同定できます。
その上で、地図に寄せてある説明書きと全国遊廓案内に記載を組み合わせてみて、妓楼である場所に色を塗ってみました。
妓楼は廃業だけではなく、買収や屋号の変更あったため、ある程度の読み直しが必要ですが、この資料はその点まで言及していてわかり易い。
そして、東西の道の入り口には石柱が立ち、いわゆる大門となっていたとの事。
説明を読む限り、当時は東側が大門だったようです。
今は堤防沿いに太い道も通っていて開けた感もあるし。舟運で栄えたという街であることを考えると川側が表玄関って思ってしまうけれども、街道側が表玄関なのね。そりゃ当たり前か。
地図・空中写真閲覧サービス
当時、この周辺はどんな感じだったのか。
いつもの通りで航空写真を確認してみます。
整理番号 | MKT636 | |
コース番号 | C1 | |
写真番号 | 32 | |
撮影年月日 | 1963/06/30(昭38) | |
撮影地域 | 東京東北部 | |
撮影高度(m) | 1700 | |
数値写真レベル(デジタル) | 10000 | |
カメラ名称 | RC8 | |
焦点距離(mm) | 151.880 | |
カラー種別 | モノクロ | |
写真種別 | アナログ | |
撮影計画機関 | 国土地理院 | |
市区町村名 | 松戸市 |
昭和38年当時の航空写真。これを見てみると。
排水機場の周辺に確かに集中して建物が建っているというのと、周辺の民家から比べて大きな建物も点在しているのが確認できます。「松戸を歩き誌す 第8号」にあった妓楼の一に一致するような場所に大きめの建物が確認できたり。確かにここにあったということを表してますね。
松戸史談 第二十五号
実際に妓楼に通う人はどうアプローチしたのか。
この点については、松戸史談 第二十五号に記載があります。
その昔、平潟遊廓に繰り込むのには、普通は、一平橋の一つ上にある松ノ木橋を渡り、樋古根川に突き当たる手前で左折、大門をくぐるのが順路だった。
松ノ木通りを駅方面から進み、
坂川にかかる「松ノ木橋」を渡る。
元センダン屋の信号のある交差点を超え、
樋野口橋手前、コインパーキングのあるところの路地に入る。
そうすると、ちょうど大門の前に出る。
こんな寸法だったようです。
改訂新版 松戸の歴史案内
適当に読み漁った史料「改訂新版 松戸の歴史案内」。ここに「平潟にできた旅籠屋」という項目があります。
こちらを見ると平潟の歴史は長く、江戸時代、1626(寛文3)年に高木筑後守に許しを得、街道沿いの飯盛女をルーツとすると記載があります。かれこれ400年もの歴史があるようです。
明治期に集娼し遊廓を形成したが、その後、戦時中に徴用工の宿舎となり、敗戦後は学生寮となったとの事。
年代は記載されていないけれども、遊廓建築の写真が掲載されています。
松戸風土記 : 市民の郷土史
別の資料、「松戸風土記 : 市民の郷土史」にも同様の記載があり、
「なお、明治期になると、平潟の飯盛旅籠屋は遊郭となり、第二次大戦中までつづいた。」
とあり、同様の説明があります。
こちらは「現在」とある平潟の写真。出版が1977(昭和52)年ですので、約50年前の風景という事でしょうか。
池田弁財天
これはおまけの話。「松戸郷土史談 第1巻(きりん亭猿象)」という私家版の資料によると、
「第四回 池田弁財天霊験記 遊女の祈願」という項目で、次のような話が掲載されている。
【要約】
梅毒、淋病を患った平潟遊廓、吉野家抱えの遊女のおつる。
夜中に廓を抜け出し、池田弁財天に詣で、
「今日から向う百日間の丑満刻詣りをいたします。どうかこの難病を治してくださいませ」
と、百日間の丑満刻詣りを始めた。
満願の前日、白蛇が現れたが、これを弁財天の使いで、弁財天の試練と信じて乗り越える。
満願の日。弁財天のご加護で病気が全快した。
という言い伝え。
どの時代も遊女や飯盛女なんてのは、つらい商売だったんだなぁ。
この池田弁財天。
常磐線を渡った西側。この距離を忍んで通ったというのだから、事実であればすごいことだと思いますね。
使用した資料
きりん亭猿象 著『松戸郷土史談』第1巻,19XX., 松戸市立図書館 蔵
渡辺幸三郎 著『松戸を歩き誌す』第8号,1995., 松戸市立図書館 蔵
松下邦夫 著『改訂新版 松戸の歴史案内』,郷土史出版,1982.7., 松戸市立図書館 蔵
松戸史談会 『松戸史談 第二十五号』,昭和60年11月10日, 松戸市立図書館 蔵
千野原靖方 著『松戸風土記 : 市民の郷土史』,ナウ企画版,1977., 松戸市立図書館 蔵
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