【静岡県】土肥の遊廓(遊女町)を同定してみる

遊廓の話

「土肥にも遊女がいたらしい」

地元の方と話をしていた時にこんなキーワードが出た。
気になってその場でググってみたが、特にそれらしい情報に当たることができなかった。
温泉地ゆえに、歓楽街の娼婦的なものは過去のあっただろうことは想像に難くないですが、どうも地元の方が言うにはそういうニュアンスでもない模様。
そのため、ちょっと調べてみることにしました。

伊豆土肥史考

土肥図書館で確認した資料「伊豆土肥史考」に次のように記載されていました。

また、土肥にも遊女町がつくられていた。徳川幕府は、政略上、吉原や島原等の特殊なものを除き、全国的に花街の存在を厳禁していたのであるが、金山地にかぎりこれを特別に許可していた。土肥にも、天下御免の遊女町があったわけである。土肥のそれは、馬場の大川沿い、かって金山長屋が並んでいたあたりにあったといわれている。

長岡治, 『伊豆土肥史考』,1979年2月, 土肥図書館蔵

金山が盛んであったころ、鉱夫等を客とした遊女街があったということが記載されていました。
場所としては馬場の大川沿いとされています。
大川であれば、これは小土肥大川であろうと思われますが、馬場(ばんば)であれば東海バスのバス停のある場所となり場所が一致しません。
どちらかの情報が誤っているということではないかと推測されます。

別の資料にもあたってみる必要がありそうです。

郷土史叢書 第19集 新版 土肥の金山

行政側で編纂した資料も確認してみます。

徳川幕府は政策上、吉原、島原などの特殊な所を除き花街の存在を厳禁していたが、金山地域に限って特別に設置を許可し、この措置に従って土肥にも天下御免の遊女町が作られた。その場所は、現在の中村区、新宿の辺かと言われる。
近年まで土肥の金山で歌われていた鉱山唄の一節に次のようなものがある。

女(あま)よ 泣くなよ 身受けの金はよ
キンコたがねのナー ドント先にある
坑夫さんにはヨー どこ見て惚れた
坑内通いのナー ドント程の良さ

このような繁栄も、天正五年(一五七七)~寛永二年(一六二五)の約五十年間のことであった。

土肥町編集委員会, 『郷土誌叢書 第19集 新版 土肥の金山』,平成15年3月, 土肥図書館蔵

こちらを見ると、遊女町があったのは「現在の中村区、新宿の辺」となっています。
また、繁栄も金山の隆盛に左右されているため、1577年~1625年の間の短期間であったようです。

この後、かなりの時間経過があることや元禄地震(1703年)、安政東海地震(1854年)等の災害なども経過していることもありますので、川沿いにあったというのが正しければ、何かしらの遺構を探すというのはまず無理であることはこの時点で想像に難くない状況です。あくまで「この辺りにあった」というのを見るのがゴールになりそうです。

この資料(『郷土誌叢書 第19集 新版 土肥の金山』)には地図もついており、地図上の14が遊女町・両替町となっています。

大雑把な地図ではありますが、想定している場所はしっかり読み取れます。

国勢調査町丁・字等別境界データセット | Geoshapeリポジトリ

さて、二つの資料の指している場所について検討します。
示されている小字の場所を確認したかったわけですが、なかなか土肥の小字の情報が手に入らない。そこで、国勢調査の区割りで確認してみます。
これを見ると、

ここだろうと思われます。

間に水口(みのぐち)が挟まっていますが、山川沿いでは隣接といったエリアです。まぁ、おおむねこの辺りといったことでしょうか。
ただ、『郷土史叢書 第19集 新版 土肥の金山』に掲載されている地図でマークされてる位置。現代の地図に置き換えると水口橋の付近となります。
昔の地域の境界は曖昧であったと考えれば、馬場、水口、中村の境界付近で山川の側であったとなるようです。

土肥町郷土誌編纂委員会 編『土肥の地名』

水口、中村の部分があいまいなのはなぜかというのは、『土肥の地名』に答えがありました。

水口と中村の変遷

水口集落は、水口川の下流、天王、水口、水口洞等の小字地域を総称した区名である。箕ノ口村、溝ノ口村など古記録もある。神明帳によれば、水口は元和九年、中村神社の氏子が山神社を勧請したのが、宝暦年中、数戸が、字”水口”として分離したという。しかし同書には、別記で、元和頃は水口と称せられたことはないし、宝暦年間分離は誤りであろうともいう。

土肥町郷土誌編纂委員会 編『土肥の地名』,土肥町教育委員会,1994.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13129423

ここで出てくる宝暦年中とは1751年から1764年の間。これよりも後に分離されたであろうとのことであるが、土肥の金山が栄えていたという1577年から1625年よりもいずれよりも後年であることから、遊女町があったころには水口はなかったという事が結論で、当時は中村の一部であったという事です。

地図・空中写真閲覧サービス

当時の地図や絵などがあればもう少し突き詰められるのですが、金山という特性なのか。なかなか昔の情報にはいきつけなかったのですが、地形的特徴からもう少しだけ確認してみます。
地図・空中写真閲覧サービスを確認したところ、当該地域の一番古い撮影は空中写真 1967/10/31(昭42)のもののようなので、こちらを確認。

すでに国道136号線のバイパスは作成されており直線的になってはいるものの、まだ出来立てほやほやという感じで田んぼのど真ん中を通る道になっています。また、現在は「椿荘」「JAふじ伊豆 土肥選果場」などになって居場所は河川敷。山川の河川整備をまだ行っている最中という状況。
これを見る限り、旧国道136号線以南は川が暴れがちだったのではないかな?という見た目です。

ちょうど、「駿東伊豆消防本部 田方南消防署 西出張所」があるあたりに一定の形状の建物が規則的に並んでいます。

上田彦次郎ガラス乾板デジタルアーカイブ

日本大学図書館国際関係学部分館が公開しているデジタルアーカイブ。こちらにこの一定規則で並んでいる建物の答えがありました。
上田彦次郎ガラス乾板デジタルアーカイブ 土肥金鉱山社宅に1955年時点での風景が掲載されています。

上田彦次郎ガラス乾板デジタルアーカイブ 土肥金鉱山社宅, https://www.ir.nihon-u.ac.jp/lib/glassplate/west_03.html

かつて写真左側の尾根の向こうには土肥金山(昭和40年に閉山)の採掘場があった。手前は白枇杷の果樹園。蛇行して流れる土肥山川にかかる金山橋を渡ると、その先にハモニカ長屋と呼ばれる鉱山で働く労働者の社宅があった。松林の向こうは土肥港。

上田彦次郎ガラス乾板デジタルアーカイブ 土肥金鉱山社宅, https://www.ir.nihon-u.ac.jp/lib/glassplate/west_03.html

これは様々な資料に出ていた鉱山労働者のハモニカ長屋。『伊豆土肥史考』には「土肥にも、天下御免の遊女町があったわけである。土肥のそれは、馬場の大川沿い、かって金山長屋が並んでいたあたりにあったといわれている。」と記載されている金山長屋がこれです。

総合すると、土肥の遊女町は山川に流入する二本の河川(安楽寺前から流れてくる川と水口橋のほうから流れてくる川)に挟まれた範囲であったと推定されます。

使用した資料

長岡治, 『伊豆土肥史考』,1979年2月, 土肥図書館蔵
土肥町編集委員会, 『郷土誌叢書 第19集 新版 土肥の金山』,平成15年3月, 土肥図書館蔵
土肥町郷土誌編纂委員会 編『土肥の地名』,土肥町教育委員会,1994.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13129423
上田彦次郎ガラス乾板デジタルアーカイブ 土肥金鉱山社宅, https://www.ir.nihon-u.ac.jp/lib/glassplate/west_03.html

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