【福島県】須賀川遊廓(十日山遊廓)を同定してみる

遊廓の話

須賀川遊廓(十日山遊廓)

全国遊廓案内の福島県の項目の続きです。

いろいろな場所はありますが、とりあえず、なんとなく土地勘のある「須賀川」を調べてみようともい、例の本で情報を確認。

須賀川町遊廓 は福島県須賀川(すかがわ)町に在つて、東北本線須賀川駅で下車する。
須賀川と、釈迦堂川とが合流して、阿武隈川に合流する所で、水利上繁華した町である。附近は煙草の産地で、旭ヶ岡公園、愛宕山等眺望の善い処がある。町から石川街道を半里程行くと牡丹園があつて、百年の古株が多い。妓楼は五六軒あつて、娼妓は三十人程居る陰店を張つて居て、廻し制だ。費用も保原、瀬上等と同程度である。
『全国遊廓案内』,日本遊覧社,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1453000 より

正直言って、あまり記載事項もなく、これだけでは特になにかの情報に行きあたるのも難しい感じ。

『須賀川市史』第4巻 (近代・現代 1 明治より昭和戦前まで)

こういう時は、とりあえず、地誌を探してみるのがよさそう。と云う事で、国立国会図書館のデジタルコレクションで検索です。全文検索もできるので、まぁ、楽な世の中になりました。

売   春 宿場町としての須賀川には明治四年頃、宮先町東側を中心に北町から大町までの表通りに五十軒を数える旅籠屋が軒を並べていたと伝えられる。これ等の旅籠屋は大町の東角の吉田屋、宮崎町東側の 白木屋を筆頭に須賀川宿繁栄に寄与するところが多かったが反面、飯盛女を抱えて売春業を兼ねていた。丁度そのころ戊辰の役の副産物として 性病が蔓延したが、これ等の施設は当局にとっては頭痛の種だったとみ えて、明治四年八月白河県駅逓掛は「其駅々旅籠屋共召抱候飯売女往々漫リニ相成リ、不都合之事二付キ」ときめつけた上、「飯売女十四歳以上一人二付一日銭百文宛病院入費トシテ上納」を申付け、「旅人ノ外、官員ハ勿論市在ノ者タリトモ管内ノ者へ相手二差出候儀ハ竪ク相成ラズ」としている。(明治初年郡県規則)
明治六年から同九年にかけて須賀川医学校に在学した後藤新平は弊衣破帽でよくこの表通りを散歩したが、大町角の吉田屋前で踵を返すのが常だったと言われる。また、生産方六名は居住する地域から自然に上紙、 下組に分れ、事あるごとに上組は吉田屋に、下組は白木屋に集ったとも言われる。あとで娼妓と呼ばれるこれ等の女性を性病から保護する検査所は県下二十八箇所に作られたが須賀川検査所は明治十五年には延三千三百三十六名を検査し五十五名の患者を検出している。須賀川は勿論、白坂、白河、矢吹、郡山を含むこれ等患者のための入院治療所が同じ頃須賀川病院内に設けられている。この所謂貸座敷を兼ねた旅籠屋は明治十三年には四十軒に減少しているが、明治十四年には二十一軒、同十五年、同十六年変らず、同十七年十九軒、同十八年十四軒となり、娼妓も同じ時期に八十二名から五十五名に減っている。これ等の施設は須賀川町が、鉄道の開通もあって宿場町としての性格を失ってゆくにつれてその存在理由もなくなり、明治三十年には貸座敷七軒、娼妓数四十八名、同三十五年には三軒十五名となり、明治三十五年各地一斉に郊外に一郭を設けて移転させた際は、その二、三が旅籠専業で残った他は転廃業し、武蔵楼、小松楼、松風亭の僅か三軒だけが指定地の十日山に移った。
(執筆 戸石清一)

『須賀川市史』第4巻 (近代・現代 1 明治より昭和戦前まで),須賀川市教育委員会,1975. 国立国会図書館デジタルコレクション より

ご多分に漏れず、宿場の典型例、飯盛女の売春が蔓延し、その結果、カサ(性病)になっていたという事、明治35年に郊外に一斉移転させたことが分かった。移転先は「十日山」という所との事。

Googleマップで十日山とみれば、出てるのは「十日山館跡」ですね。この辺りと云う事になるのでしょうか。とはいえ、これ以上に情報は無いので、さらに検索です。

『写真集明治大正昭和須賀川 : 長沼・鏡石・天栄・岩瀬 ふるさとの想い出18』

写真集に遊廓の記録があるとのことがわかったので、資料にあたってみます。これは国立国会図書館で公開はされていますが、図書館向けの送信のようなので、取り扱いのある図書館で複写をお願いして確認。

須賀川史談会 編『写真集明治大正昭和須賀川 : 長沼・鏡石・天栄・岩瀬 ふるさとの想い出18』,国書刊行会,1979.1. 国立国会図書館デジタルコレクション より

須賀川史談会 編『写真集明治大正昭和須賀川 : 長沼・鏡石・天栄・岩瀬 ふるさとの想い出18』,国書刊行会,1979.1. 国立国会図書館デジタルコレクション より引用

ページ跨ぎなので、若干 見にくいですが 遊廓の写真が残っています。そこにある説明書きは下記の通り。

20 十日山遊郭

江戸時代より宿場町としての須賀川には明治四年ごろ、五〇件を数える旅籠屋があった。これらの旅籠屋は町の繁栄に寄与する所が多かったが、明治三五年貸座敷法により貸座敷を兼ねた旅籠屋は郊外に一郭を設けて移転させた。須賀川では十日山に指定地を設けて「十日山遊郭」と呼ばれ、三軒が移転営業をした。明治四〇年ごろの写真。

須賀川史談会 編『写真集明治大正昭和須賀川 : 長沼・鏡石・天栄・岩瀬 ふるさとの想い出18』,国書刊行会,1979.1. 国立国会図書館デジタルコレクション より

この写真とメッセージは重要な情報。崖の上の様な場所にあったという事。やはり十日山であり、楼は三軒。そんなに大きな面積でがあったわけではないという条件がかけられている。この見た目の特徴というのは地形の特徴を表しているようで、たぶん、何かしらのキーワードになるだろうなぁ。と思いつつ、でも、これだけじゃ何も確定はしないのでさらに確認していく必要がありそうです。

須賀川商工会議所まちづくり通信

国会図書館の情報では限界だなぁ。とインターネットの力を借りてみた所、須賀川の商工会議所のサイトでこのようなものを発見。

「新地の坂」
明治から昭和初期まで、現在の須賀川商工会館がある場所から十日山にかけて三軒の遊郭があったことから、当時は新地と呼ばれていました。

「坂の道標」新たに3基設置します|須賀川商工会議所まちづくり通信

街づくりの一環で、市内に案内板を設置しているという情報の中に、坂の名称の由来としてこのような文面を記載するとの事。場所は

「新地の坂」「治部稲荷坂」道標(1基で対応)設置予定地

「坂の道標」新たに3基設置します|須賀川商工会議所まちづくり通信

とあって、「治部稲荷」という所を見て考えられそうです。

設置場所と記載内容、他の情報を総合すると、須賀川商工会議所から十日山舘跡の付近が該当という感じですね。

実際にストリートビューで見てみると、確かに崖とは言わんまでも高低差があるように見えます。とはいえ、そこまではっきりした高低差という感じでもなく。さてどうなんですかねぇ。

地図・空中写真閲覧サービス

そうなると、昔の航空写真を見るのが確実かな?と思い検索。
検索する先は地図・空中写真閲覧サービス。ここで鳴瀬周辺の一番古い地図を検索するとこれが見つかります。

整理番号 USA
コース番号 R413
写真番号 20
撮影年月日 1947/10/29(昭22)
撮影地域 須賀川
撮影高度(m) 2438
カメラ名称 K-17
焦点距離(mm) 153.300
カラー種別 モノクロ
写真種別 アナログ
撮影計画機関 米軍
市区町村名 須賀川市

当該エリアの撮影で一番古そうなのは昭和22年撮影のこれに見えます。
これを現代の地図と見比べると色々見えてきます。

須賀川駅から延びる道の形状が違うあたりから違いが見え、釈迦堂川の流れも違うあたりも意外性。
でも、鉄道路線は変わり様がないはずなので、この辺りを基準にあたりを付けてみればいいわけで。

Googleマップ と 地図・空中写真閲覧サービス のデータから場所を同定

いやいや、面白い。
商工会議所前の道、当時にはなかったんですね。それで、崖の上の遊廓の正体が見えてきた気がします。道を作る際にこの辺の地形は修正されている感じ。航空写真側から条件に似合う場所を探し出し、その場所に囲みを入れ、位置合わせした現代の地図にもその範囲をマッピングしてみます。

十日山館跡のあたりから商工会議所のあたりを囲むエリアが当該という感じであろうと思われます。これは、商工会議所の坂の説明とも一致します。多分、これであたりです。

どんな感じだろうか?

特定した場所を見てみます。

区画の広いお宅があって、当時のオーナーが所有しているのかなぁ。って様相ではありますが、建築物はもちろん現代ものに置き換わっているように見えます。

これをMAPPLE法務局地図ビューアで確認してみると様相がちょっと違います。
細切れになった地番にまたがって建物が建っているように見えます。しかも、番号の形から、近代になってから区画の整理を行った形跡もありますのでいろいろとあったのちにこの形に落ち着いたものと思われます。

ストリートビューなどを駆使して確認しても、古そうな建物は稲荷山舘跡にある蔵くらいでしょうか?2013年頃の画像で修繕しているのが見えますが、屋根瓦の状況からソコソコは古いのではないかとは思われます。とはいえ当時ものではないでしょうね。

大日本職業別明細図

『大日本職業別明細図』を見ていると「福島県須賀川町」の地図があるのを発見。

東京交通社 編『大日本職業別明細図』,東京交通社,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション より引用

全体的には今の須賀川の街の構成とあまり変わらない感じ。そこで、以前に同定した場所付近を確認。

東京交通社 編『大日本職業別明細図』,東京交通社,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション より引用

うん。しっかりと「遊廓」の文字があります。

近隣で参考になるのは「旭宮神社」。現在の地図で確認すると、旭宮神社は十日町館跡から見て、道路を挟んで南側。想定していた場所とほぼ一致しています。

岩瀬案内記

記載内容を見ると、

鈴木克己 等編『岩瀬案内記』,橋本源太郎,明36.9. 国立国会図書館デジタルコレクション より引用

●遊廓 武蔵屋、松風亭、小松屋。

とあります。
明36.9出版という事で、明治末期にはすでに3件まで楼閣は減っているということになるわけです。

岩瀬案内

類似の大正時代の資料も確認してみるとこのような感じ。

橋本隈川 著『岩瀬案内』,橋本新聞店,大正10. 国立国会図書館デジタルコレクション より引用

〔遊廓〕 町の東字十日山-に在り、色慾界の別境も、近來衰退し昔日の感なし、然かれども一笑千金の媚鐵心を鎔かすの思ある遊境として、有せざるべからざる所なるも、只三軒の樓あるに過ぎず。

武蔵楼 電話七〇番    松風亭 電話二四番    小松樓 電話一七二番

大正10年の出版のこの資料でも多少名前は違えど、3軒。
移転時点で縮退して、長い間、この規模で維持されていたのでしょうね。

訪問してみる?

痕跡は見事なまでになにもなさそうです。 まだ残っているなら急ぎですが、こうなると急いでわざわざ訪問するまでもなさそうであるので、何かの機会に訪問でもいいかなぁ。といった感じですね。

使用した資料

須賀川史談会 編『写真集明治大正昭和須賀川 : 長沼・鏡石・天栄・岩瀬 ふるさとの想い出18』,国書刊行会,1979.1. 国立国会図書館デジタルコレクション
『須賀川市史』第4巻 (近代・現代 1 明治より昭和戦前まで),須賀川市教育委員会,1975. 国立国会図書館デジタルコレクション
「坂の道標」新たに3基設置します|須賀川商工会議所まちづくり通信(2923/12確認)

東京交通社 編『大日本職業別明細図』,東京交通社,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2024-01-28)

鈴木克己 等編『岩瀬案内記』,橋本源太郎,明36.9. 国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2024-03-26)

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