浦和町中野原新開地
全国遊廓案内を見ていると、廃娼県のはずの埼玉県にも4か所の記載があるのを見つけました。
廃娼県とは言えど、結局は実質的には遊廓(遊郭)と変わらんことをする「乙種料理店」「達磨屋」「あいまいや」などと呼ばれる料理店が跋扈していたという事です。それらの指定地が各地にあったようですね。
記載があるのは、川口町、深谷町、浦和町、本庄町。この中でも浦和町は現在のさいたま市浦和区になると思われるのですが、今の文教地区な浦和を知るに遊里のイメージが全くわきません。 いったいどこにあったのか気になって、ちょっと調べてみることにします。
全国遊廓案内
全国遊廓案内(基本書)にはどう書かれているか?
浦和町中野原新開地 は埼玉縣浦和町字中野原新開地にあつて鐡道は東北線浦和驛で下車、浦和町の東、鐡道路線の東方(向ふ側)にあつて、乙種料理店の集合である。此の乙種料理店が遊樓兼料理店の形式をなして居り、而も警察の公認を得て家毎に酌婦を置いて居るのである、遊興費は殆どんど一定せられて一時間三圓となつて居る。が多少の相異は免れない。 角屋、長壽屋、瓢屋等代表的なものである。縣廳があり、高等學校が出來てからは急に町が發展して來た所だ。花柳界も學校の花柳界だと云はれて居る程學生の客が多い。
『全国遊廓案内』,日本遊覧社,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション より
とあります。キーワードとしては「埼玉縣浦和町字中野原新開地」という場所で「乙種料理店」。代表的な屋号は「角屋、長壽屋、瓢屋」と云う事になります。それにしても、学生の客が多いというのはまたまた…である。
ここで「乙種料理店」というキーワードが出てきています。いったいこれは何か?まぁ、端的に言えば飯盛女の再来である。
『浦和総覧』
とりあえず、こういう情報が出てきたときは、地域名を関した「地誌」の類を最初に見るってのが鉄則。とりあえずで、国立国会図書館デジタルコレクションで「浦和」をキーワードに検索して地誌を検索。
いくつか情報が出てきますが、それをタイトルをヒントに虱潰しに見ていると「京北振興会 編『浦和総覧』」というのを発見。 これを斜め読みしていたら231ページ付近から乙種料理店の記述が見つかります。
乙種料理店
長壽亭 (蛭田ハツ) 森屋 (細淵はつ)
瓢屋 (海野きよ) 第二金正 (加藤正儀)
生野屋 (野村泰助) 角屋 (八島政右衛門)
田中屋 (田中とめ) 喜久本 (濱口省三)
新田中屋 (福田芳太郎) 金正 (加藤正之助)
第三金正 (松波きん) 立花亭 (岸田むつ)
ときわ (栗原梅太郎)組合長は角屋(八島政右衛門)である、組合員は何れも中野原といふ俗に新開地と稱する所に在る料亭で、遊興費一時間三圓見當である。
とあり、長壽屋というのは長壽亭の事であろうと考えれば、全国遊廓案内とほぼ同じ内容が記載されていることになります。 乙種料理店は時期にもよるでしょうけれども、浦和総覧が記述された昭和2年には13件の店が並んでいたということになるようです。
地図で場所を探してみる
と云う事で、「中野原といふ俗に新開地と稱する所」という所がどこかを同定すればいい話になります。
とりあえず安直に、現在の浦和の地図を眺め、「中野原」もしくは「なかのはら」という地名を探します。 でも、いくら地図を眺めても、地名で検索しても見つからず。 全国遊廓案内には「鐡道は東北線浦和驛で下車、浦和町の東、鐡道路線の東方(向ふ側)にあつて」とありますので、現在でいう「東仲町」「東高砂町」「本太」のあたりになるのでしょうけれども、その辺りで似たような地名を探すも見つかりません。
浦和市全圖
何かの理由で地名が変わる事もあるので、古い地図に当たってみようかと確認。都築庸二 著作 ・ 製圖『浦和市全圖』等に当たってみます。これは1941年(所和16年)の地図ですが、この地図でも、東口付近にそのような地名は見当たらない。全国遊廓案内が昭和4年なので、地図的にももっとさかのぼらなければならない模様。
いったん、手抜きしてみましょう。
あぁ、もうっ!っと、ここで手抜きを決断。いったん、「中野原新開地」をキーワードにググれば、同様の事を調べている人がいるんじゃないかな?と思って実行。やっぱりいました。浦和町中野原新開地乙種料理店 | 咲いた万歩というサイト。同じように調べてましたね。
ここの記述を見ると、浦和駅東口付近は「耕地整理」をしているようです。もろもろの資料が記載されていますが、さすがに一次資料に当たって確認したいなぁ。と思い、耕地整理に関して調査してみるといいのを見つけました。
埼玉県浦和耕地整理組合確定図
埼玉県立図書館デジタルライブラリーに、埼玉県浦和耕地整理組合確定図が掲載されています。
これを見ると、現在の東仲町付近が「中ノ原」であるのがわかります。ただ、このエリアのどこが新開地なのかはわからず。これを全域で見ると、越谷街道から田島大牧線のあたりとかなり広範囲です。ぐぬぬ。
『街にキネマがあったころ』
でも、咲いた万歩さんのところは続きがあって、平成21年さいたま市立博物館発行『街にキネマがあったころ』に新開地の記述を見つけています。この資料は2023年10月現在でさいたま市立博物館でまだ販売されている資料でもあり、入手して確認してみることにします。
たまたま、さいたま市立博物館に行く用事があったので、思い切って買ってしまいました。
確かに新開地の記述があります。これを見る限り、現在のうらわの地図とはちょっと違うようです。そこで、先ほど埼玉県立図書館で発見した埼玉県浦和耕地整理組合確定図と照らし合わせて場所を確定させてみます。
同定方法はいろいろあると思いますが、私の場合、寺社仏閣を基準に考えるようにしています。地図の北東側にある大きな寺院「延命寺」。比較的小さくて目立たないものの、駅のそばにある「大善寺」。ここに赤丸を書き、それぞれに伸びている道の特徴を見極めていきます。
そうすると、延命寺の前から延びる道、大善寺横を通るまっすぐの道が該当エリアの両端を通っているのがわかります。そこから道の特徴を当てはめると、簡単に場所を確定できます。これは時代がほぼ一緒ですので、特に難しくはないです。
なぜこの作業をしたかというと、確定図はそれなりの精度で書かれているので、現在の地図と重ね合わせたときに、それなりの精度で確認できると踏んだからです。そこで、さらに現代の地図と見比べていきます。
これを見ると、現代の地図だと、浦和駅東口(北)から浦和駅東口(南)まで一本太い道が開通しており、、大善寺横を通るまっすぐの道が新開地付近で分断されているのがわかります。その辺りを航空地図で見ると面白いですね。
元々の道だった部分と新しい道の関係から、道の脇に余分な歩道の様な所が残存しているのがわかります。これが昔の道の痕跡と云う事でしょう。 それをベースに、あてはめていくと…
こんな感じで場所が特定できました。この辺りに十軒以上の乙種料理店が立ち並んでいたという事なんですね。
訪問してみる?
同定した感じだと、現住所で云う所の「埼玉県さいたま市浦和区東仲町」の19番地と23番地付近ってことになります。実際に行ってみるか…
と思って、ストリートビューで見てみたけれど。痕跡は見事なまでになにもなさそうです。まぁ、これだけ利便性の高い場所で、しかも再開発的なものも現在進行形で行われている状況では、そりゃ期待できるものも無いわなぁ。わざわざ訪問するまでもなさそうである。そのうちに浦和に用事でもできたら行ってみましょうかねぇ。
追加調査をしてみた
使用した資料
『全国遊廓案内』,日本遊覧社,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション
京北振興会 編『浦和総覧』,京北振興会,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション
都築庸二 著作 ・ 製圖『浦和市全圖』,浦和市,1941.9. 国立国会図書館デジタルコレクション
『埼玉県浦和耕地整理組合確定図』,浦和耕地整理組合,1934.4. 埼玉県立図書館デジタルライブラリー
『街にキネマがあったころ』,さいたま市立博物館,平21 個人蔵
メモ
懐古主義者の暇つぶし|浦和町中野原新開地を同定してみるから移動してきました。