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【福島県】追加調査 – 瀬上町遊廓を同定する

以前に調査した瀬上町遊廓の同定を「こたつ調査」で行ったけど。やはりもうちょっと調査せねばと、再調査してみました。

ごんけやん 「半百の歩み」

どうにも前回の調査でもやもやしたのがこの資料。ブログにはこの資料から引用した地図等が掲載されており、かなり詳細な情報が載っているようでした。ただ、この資料、探してもなかなか手に入れることが難しそうであきらめてましたが。あきらめきれずに資料を確認してきました。白河市立図書館まで。
この本のために高速数時間とばすって…我ながら狂ってますね。

この資料には、

5 瀬上新町(薬師前)の盛衰記

瀬上花街の移転は、瀬上宿に限ったことでなく、全国の宿場町にみられたことで、新町(しんちょう)又は新開地(しんかいち)として一区画をなし移転させられた。
(省略)
薬師前に移転した瀬上遊廓は、図の様に六軒あって、移転直後の明治三十六年七月中の客は千六百七人で、一日平均五十三人とあり、遊興費は千五百八十円で一時経営も危ぶまれたが、大正十三年ごろには、瀬上花街としての永年の知名度と新町が地の利に恵まれたため、年間遊客、一万八千二百九十七人、遊興費三万九千八百十四円七十一銭と申告されるようになり、前の荒町時代に劣らぬ繁盛振りとなった。


瀬戸孝一 著 『ごんけやん「半百の歩み」』, 福学図書, 昭和五十七年五月一日

との記載を確認することができた。もともとは街道沿いに点在していた「飯盛女」で栄えた瀬上宿。他の宿と同様に明治三十五年に移転が命ぜられ、瀬上の東裡と呼ばれた薬師前に移転。移転後は六軒の楼で廓をなした。移転当初こそ苦戦したが、その後は盛り返したという事のようである。
また、この続きに、

4 進駐軍も知っていた瀬上遊廓
(省略)
彼らは福島進駐するとすぐ、遊廓が瀬上にあることを知り、女を求めてきたのであった。この道だけは万国共通、人間の変わらない門脳である。
瀬戸孝一 著 『ごんけやん「半百の歩み」』, 福学図書, 昭和五十七年五月一日

とあり、敗戦後、赤線となったのちも営業が続いており、進駐軍の利用があったことを記録しています。

福島公娼史 -社会の底辺に生きた女たち-

今回の調査に合わせて、福島の遊廓調査をするにあたってどうしても必要な資料を一冊購入。
福島の公娼史をまとめたバイブル的一冊。

貸座敷見取図(瀬上薬師前・明治45年頃)

薄井三男 著, 『福島公娼史』, 平成五年十二月二十五日

こちらにも貸座敷がどのように配置されていたかの地図が載っています。『ごんけやん「半百の歩み」』に記載されている楼閣の名称とは一部異なる点もありますが、これは時代の変遷で変更されているという事でしょう。
ここでポイントとなるのは「遊廓道路」の位置。
『ふくしま散歩 : 福島郷土文化風物誌』で示されていた「花月楼」の姿。当時の感想として「石倉造りと言えばかっこいいけれども、はたから見てると倉庫っぽい感じですね。これだと遊郭っぽさはあまり感じないですね。」と前回の調査の所で書いたわけですが。それはその通りだったわけです。ここは裏通り。一晩過ごした客がひっそりと抜け出す側な訳です。そりゃ、そういう造りになりますよね。

そうなると、遊廓のメインストリートは「理容室銀座」の角を入った路地という事。たしかに、この路地の舗装はいかにも私道といった感じで他のエリアとはちょっと違う。いずれにしろ何も残ってはいないことは確かですが、現地踏査することがあれば、こちら側を確認しないといけないですね。

日興の住宅地図 福島市 1971

参考までに国立国会図書館に収められている、最も古い同地区の地図を参照してみました。

日興の住宅地図 福島市 1971

個人名となる部分は消してみたところ、こんな感じ。
遊廓地の件数もすでに一致しなくなっています。また、住居者として表示されている方の苗字もほんの一部は遊廓時代の方と同じというのもありましたが、大多数は一致しなくなっておりました。
唯一一致しているのが「下駄工場」これは変わらずのようでした。住宅地図から追うというのはこの遊廓地に関しては難しいですね。

現地踏査

さて、こうなったら。
なにか少し現地踏査を考えてみますかね。

使用した資料

瀬戸孝一 著 『ごんけやん「半百の歩み」』, 福学図書, 昭和五十七年五月一日
薄井三男 著, 『福島公娼史』, 平成五年十二月二十五日

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