【静岡県】三島中島遊廓(三島市)を同定してみる

遊廓の話

全国遊廓案内

いつもの本、全国遊廓案内にはどのように書かれているか。

三島中島遊廓 は靜岡懸田方郡三島町字中島にあつて、東海道線の三島驛で駿豆線に乘換へ、廣小路驛で下車するのが便利である。驛から西方へ約五丁、乗合自動車の便がある。
附近には官弊大社三島神社があつて、箱庭の様な富士山が後方に巍然として聳えて居るので、誠に景色のよい所である。妓樓の軒數は五軒、娼妓は全部で四十五人程居る。制度は寫眞制で居稼ぎ制度。遊びは全部東京式の廻し制である。遊興には甲乙丙とあつて、甲は五圓、乙は三圓六十錢、丙は一圓八十錢位で、席料或は遊興税等は一切此の中に含んでいる。
都合で箱を入れる場合には、玉代一座敷二圓八十錢位である。
民謡「富士の白雪朝日でとけて 三島女郎衆の化粧の水」
妓樓は、稲妻樓、尾張樓、萬字樓、井桁樓、新喜樓、の五軒である。

『全国遊廓案内』,日本遊覧社,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1453000 より

とあり、三島駅から駿豆線に乗り換えてと案内されています。
これは三島の成り立ちからすると至極自然な場所の案内。
元々、東海道筋で発展した街なので、中心地は東海道筋、特に三嶋大社付近が辻になっているのでそこから西側に宿場が展開されていました。そう、駿豆線の広小路駅はまさに街の中心地なんですよ。

三島市誌 中巻

この辺りの事情は「三島市誌編纂委員会」が編纂した三島市誌に次のように記載されています。

食売女は一軒の旅籠に定員を二人とされているが実際にはそれ以上を抱えていた。食売女を多勢かかえている旅籠は三島の宿場では梅木屋・竹屋・蔦屋・上総屋・奈良屋・相模屋・松村屋などであって特に梅木屋(雅楽パチンコ店の位置)には美人が多いというので評判だったようである。これは上級旅籠の部に属すが、中級旅籠には大坂屋・松屋・栄屋・三浦屋・尾口屋・原田屋・相州屋・井桁屋・山形屋・尾張屋・桝屋等が妍を競って繁栄し、玉屋・万字屋・浜野屋・千歳屋・万屋・青木屋・江島屋・角屋・徳島屋・河内屋・中津屋・山本屋・甲田屋・古野屋・梅本屋・住吉屋・江戸屋・高砂屋・清水屋などは下級旅籠の部ではあるが飯盛女郎の二人から五人位を抱えていた。こころみに慶応元年から三年までの大中島・小中島両町の人別帳による戸口調査の状況を図表に示せば次頁の如くなるので、この中より食売女の数を推測するのも興味があろう。

三島市誌編纂委員会 編『三島市誌』中巻,三島市,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3005202

江戸の時代については、三島の旅籠はほぼ飯盛旅籠であり、しかもほかの宿場同様に認められた人数以上に抱えている事情は一緒だったようです。

具体的な場所としては「大中島・小中島両町」と記載されています。

これについては三島市民ポータルサイト(2026年2月23日 確認)によると、これらの地域には商店会があり、その説明を抜粋すると下記のようになります。

本町大中島商店会:源兵衛川と四の宮川の間に位置する当商店街
本町小中島商栄会:大通り商店街の中央に位置する商店街

これをさらに調査すると三島大通りについて①暁秀高校ホームロジェクト(2026年2月23日 確認)には

現在は三島広小路駅から三嶋大社の手前までが、本町大中島商店会、本町小中島商栄会、
中央町商店会の3つの商店会に分かれています。
それぞれ、大中島と小中島は四ノ宮川、小中島と中央町は御殿川という川で分かれています。

三島大通りについて①暁秀高校ホームロジェクト(2026年2月23日 確認) https://www.mishima-odori.com/street/2022/04/20/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E5%A4%A7%E9%80%9A%E3%82%8A%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E2%91%A0%E6%9A%81%E7%A7%80%E9%AB%98%E6%A0%A1%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88/

総合すると、源兵衛川(うなぎ桜家付近)から田町駅入口交差点までが該当地域となります。ここに多くの飯盛旅籠であふれていたという事の様です。

それがどうなったか。これも記載されています。

三島遊廓 明治の公娼制度は日本文運の隆昌に従って大正時代にひきつがれたが、その組織や機構は却って中央集権化した。救世軍や識者達によって叫ばれる公娼廃止論を他所に、多くの貸座敷業者は宿場的営業から廓的営業に移ったのである。
(省略)
従って明治中期後の三島町中島通りには、花木・宝来・中川・尾張・稲妻・千歳・井桁・万字(後、万寿と改称)鳴海・清水の十軒がわずかに三百年の伝統を誇るかに営業を続けているに過ぎなかったが、大正年代に移行するに及んで業者は次第に減少の傾向を辿った。然るに大正末期に至っては各地に遊廓設置の機運が濃厚となったので三島業界の実力者である稲妻楼の発起により三島遊廓の設立が具体化された。しかしこれには多額の資金を必要としたことから二、三の業者は止むなく脱落して自から廃業という途を辿らざるを得なかった者もある。ここに於いて残る業者はしばしば協議の結果、町の風紀上最も影響の少ないと考えられる旧宿場西南の地(茅町二丁目)を買収して三島新地、即ち三島遊廓を設置したのである。
その貸座敷業組合員も稲妻・尾張・万寿・井桁・新喜の五楼に過ぎなかったことは封建的性格を多分に持ったこの種の営業が既に末期的現象を露呈しつつあったことを証明している。
(省略)
昭和二十年八月十五日、日本敗戦という現実と連合国軍の内地進駐と、総司令官マッカーサー元帥の指令は遂に弱き者のすべてに幸福をもたらしたのである。新喜楼が解体の運命に逢着したのはいうまでもなかった。惟えば海道名物として久しく人口に膾炙された三島女郎衆もここに終止符を打つに至って、華やかなりし日本公娼制度の歴史は終幕を告げたのである。

三島市誌編纂委員会 編『三島市誌』中巻,三島市,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3005202

明治維新後、三嶋宿の飯盛旅籠も縮小傾向にあったが、さらにこの中から政府方針に則り一画を構えて移転をしたが、終戦の時期に歴史に幕を閉じたという事のようです。

住居表示整備事業

移転先の「茅町二丁目」は現代の住所には内容です。
住居表示が変わってしまったんでしょう。この手の情報は三島市が情報を持っているはずと検索。

実施年月日 新住居表示町名 実施面積

(ha)

旧町名
第1次実施地区

昭和40年4月1日

加屋町 8.4ha 茅町1・2
清住町 9.7ha 茅町2・3・4

住居表示整備事業, 三島市, https://www.city.mishima.shizuoka.jp/page/1869.html(2026年2月23日 確認)

現在の住所では「清住町」となっているとの事。

広小路駅から南西方向に位置する地域という事で、記述に矛盾は無いようです。

大日本職業別明細図

実際の当時の地図も参照して照合です。


東京交通社 編『大日本職業別明細図』,東京交通社,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/8311839

ほぼ位置としては間違いないようです。線で囲んでいないことから、何かしらの壁等で囲んでいた状態ではなく、田んぼの真ん中とかにポツンと新地を興した形であることが想像されます。

地図・空中写真閲覧サービス

「1941/04/01(昭16)」に「陸軍」が撮影した「三島」を撮影した空中写真を確認してみます。
こんな空中写真が無料で見られる世の中になったの。本当に素晴らしいですね。


地図・空中写真閲覧サービス – 「1941/04/01(昭16)」「陸軍撮影」「三島」より抜粋

田んぼのど真ん中にそれらしい一角があるのが確認できます。
大日本職業別明細図からしても、この位置が該当であることが推定されます。

これを現代の地図と照らし合わせて同定に必要な主要な情報を確認すると、

  1. 画面中央上部にある部分は「三島市立西小学校」。南側の区画を買収して校庭になったと思われる。
  2. 画面中央中部にある大きな区画は「電業社」の工場であると思われます。区画西側にある水路状の痕跡は現代の地図を見ると暗渠として同様の形状で残っている模様。

という事が確認できます。

西小学校と電業社の間の道が新地の北端。電業社の正面入り口の前の道が新地の南端。
東端側は電業社の現在の位置から考えて、「清住緑地入口」のバス停のある通りであると読み取れます。
こうなると、想定されるエリアは「静岡県三島市清住町8~9」の範囲であると特定できます。

本来なら、ここで古い住宅地図等に当たって確認をするのがいいのですが。
先ほどの資料からするに昭和20年(1940年)頃に廃業しているという。
国立国会図書館で所有する一番古い住宅地図が1971年であることから、どうだろうか…。

ゼンリンの住宅地図 三島市附長泉町・函南町

国立国会図書館に行ったときに地図を確認。

ゼンリンの住宅地図 三島市附長泉町・函南町 より抜粋

東海善隣出版社, ゼンリンの住宅地図 三島市附長泉町・函南町, 1971. 国立国会図書館より引用

個人名にかかる部分は削除したものがこんな感じ。
廓の真ん中の道だけは太く、奥に細い道はあるけれども実質的にドン詰まりな構造。いかにも元遊廓地です。
メイン通りの両側は寮の類が立っています。遊廓地の廃業後の姿と言ったらこの姿が思い浮かぶくらいの典型的な展開に見えます。

ここまでの情報で「確かにここだったんだろう」という確証は得られたかな?といった感じです。

当時の風景

このエリアにはどのような風景だったのか。なかなか資料が見つからなかったのですが、地誌に写真を発見。

三島市誌 中巻


三島市誌編纂委員会 編『三島市誌』中巻,三島市,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3005202

先述した『三島市誌 中巻』には当時の写真が掲載されていました。
キャプションには「昭和初期の三島新地(三島遊廓)稲妻楼前に夜桜を賞味する娼妓たち」とあります。

目でみる三島市の歴史


友野博 著『目でみる三島市の歴史』,緑星社出版部,1979.8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9538060

こちらには「万寿楼」の建物が記載されている。この万寿楼は廃業後に転用され最後まで残っていた建物の様です。なかなか豪奢な造りである。資料には建物内部の手の込んだ造作なども記載されていましたが、なかなか素晴らしいもの。現存する間に見ることができなかったのが惜しまれます。


友野博 著『目でみる三島市の歴史』,緑星社出版部,1979.8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9538060

また、「三ツ石神社にある石碑」というのも掲載されていました。
三ツ石神社は「うなぎ桜家」の裏手にある神社を指していると思われます。

これは石碑ではなく、玉垣ですよね。
玉垣は近隣の寄進でできるものだったりするので、地域にある商店や有力者などを知るのには重要なデバイス。自分も神社に行くと確認するのですが、ここの神社、玉垣はなかったような。私が訪問した時にはすでに撤去されてしまった後なのかもしれません。これも…遅かったか!というやつの様です。

デジタル現地踏査

残渣は何もないのかなぁ…と一応、Google Street Viewで確認。

そうだよねぇ。全部建物は建て替わっちゃってますよねぇ。
もうこの通りを見ただけでお察し。


唯一と言っていい感じで当時の面影を残すのは「電柱に残された新地支の文字」位でした。

場所は特定できましたが、一足も二足も遅かった感じですねぇ。

使用した資料

『全国遊廓案内』,日本遊覧社,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション
三島大通りについて①暁秀高校ホームロジェクト(2026年2月23日 確認)
三島市誌編纂委員会 編『三島市誌』中巻,三島市,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション
住居表示整備事業, 三島市 2026年2月23日 確認)
東京交通社 編『大日本職業別明細図』,東京交通社,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション
地図・空中写真閲覧サービス – 「1941/04/01(昭16)」「陸軍撮影」「三島」
東海善隣出版社, ゼンリンの住宅地図 三島市附長泉町・函南町, 1971. 国立国会図書館
友野博 著『目でみる三島市の歴史』,緑星社出版部,1979.8. 国立国会図書館デジタルコレクション

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