【静岡県】子浦のタカンバを同定してみる

遊廓の話

西伊豆の観光案内を見ていた時。
「ころばし地蔵」というのが子浦にあるとの記述を見つけました。

静岡新聞のサイトには

海に突き出た地蔵鼻にある3体のお地蔵様

風待ち港として栄えた昔、子浦の遊女が客を引き留めるためにこの地蔵を転がしたといわれている。この地蔵を転がすと風が変わって海が荒れ、船出した帆船が戻ってきたという。

ころばし地蔵[賀茂郡南伊豆町]|静岡新聞アットエスころばし地蔵, https://www.at-s.com/spot/article/133699

と記載があります。風待ち港として機能を有していたという事でしょう。
さて、これがどうだったのかを少し調査してみようと思います。

静岡県・海の民俗誌 : 黒潮文化論

図書館で確認した「静岡県・海の民俗誌 : 黒潮文化論」という資料に子浦の記述を見つけました。

西風が強い時には風待ちの船が集まって、まるで林のように船の帆柱が立ち並んだ。その当時は妻良と子浦を結ぶ渡し船があって、妻良に泊まった人達は子浦の料理屋に通ったものだった。今でこそ車で数分という目と鼻のさきの二つの港であるが、トンネルのできる前は、陸路はなかなかの難所だったという。子浦には吸海楼という店が海に面して建っていた。二階の欄干には女達が並んで下を通る船の船頭たちを誘った。入船、辰巳亭などという店もあり、総称して子浦タカンバと呼ばれていた。「子浦タカンバの女は尾の無い狐、おらも二、三度だまされたい」という歌がある。ところが、海に面しているのが裏目になることもあった。酔客もさるもの、飲み干した銚子を海に投げ込んで勘定をごまかしたために、店がつぶれてしまったという噂もあるほどである。子浦の日和山の山裾にはころばし地蔵というのがあって、遊女たちが荒天を祈って願をかけ、それが外れた場合は像をころばして痛めつけたという。

静岡県民俗芸能研究会著, 静岡県・海の民俗誌 : 黒潮文化論, 静岡新聞社, 1988.11

風待ち港として栄えた妻良・子浦についての記述で、

  • 妻良に泊まった人達は子浦の料理屋に通った。
  • 「吸海楼」「入船」「辰巳亭」などがあり、子浦タカンバと呼んだ。
  • 遊女は「ころばし地蔵」で、遊女たちが荒天を祈って願をかけた。

ということです。
謎の用語「タカンバ」というのが出てきましたが、この手のお店のあった場所の総称として呼ばれていたという事で「地名」かなにかなのでしょう。

伊豆

当時の観光ガイドである「伊豆」をちょっとパラパラと確認したら、これを裏付ける記載を確認。

崖上の子浦遊廓跡

波勝と松崎 波勝の断崖を見るために私は子浦から船に乗った。その子浦の桟橋の見えるところに、かつての遊廓の跡だという、なかばこわれかかった二階家があった。「子浦が漁港として栄えたころ、あの二階から首の白い狐が手をふって、出船入船に会図をしたのです」と説明された。
安斎秀夫 著, 『伊豆』, 保育社, 1962

とあります。
遊廓は港に面した崖の上にあったという事がわかります。

それにしても、写真の建物はちょっとした地震でも潰れてしまいそうな掘っ建て感。少し怖いですね。

そして、後半のページに「タカンバ」の意味が書いてありました。

妻良子浦
(省略)
波勝遊覧の船が出る桟橋に着くと、そこから岬の高みにもと廓だったという倒れかかった吸海楼の建物が見える。その前に大きなエノキがあって、それが吸海楼を支えているように思われた。
子浦の歌にあるタカンバというのは高見場の意味で、この建物の二階の廊下から女たちは出船入船に手を振って合図したものだろう。その昔の漁港はなやかなりし日が思われる。吸海楼をはじめとした何軒かの銘酒屋は昭和のはじめごろまで営業していたそうで「ひところは三十人からの女がいたもんだ」と桟橋で積荷の指図をしていた顔の長い老人が教えてくれた。

安斎秀夫 著, 『伊豆』, 保育社, 1962

タカンバとは高見場。高い場所から見下ろしてみる場所の意図でしょうか。崖の上に遊廓があったとすれば港を見下ろす形なので、そりゃそうなんでしょうね。

そして、「銘酒屋」と書いてありますので、戦後も売春防止法の時期まで営業していたものと推測できます。

ハイカー 1971年2月

ついでにいろいろ確認したので、そのあたりも併せて情報を煮詰めてみます。
ハイカーという雑誌に記載された「子浦」の記載。

子浦民宿
(省略)
昔は西海岸随一の風待ち港で、多い時は妻良港から子浦港まで千石船がぎっしりつまり、妻良から子浦まで船から船を渡ってこれたという。したがって船宿も多く、浜条新屋、大屋、志摩屋、中宿などの大宿をはじめ、小宿をふくめて二十五軒ほどの船宿があった。吸海楼、三成楼、辰巳などの料理屋があって日夜三絃の音が絶えなかったという。
(省略)
船乗り相手の女たちが風待ちの船乗りを帰さぬため、海の守りの地蔵さんをころがして怒らせ、海を荒れさせたというコロガシ地蔵。
(省略)

『ハイカー』(184),山と渓谷社,1971-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2295957

ここでは料理屋として「吸海楼」「三成楼」「辰巳」が挙げられています。ただ、前述の資料では「吸海楼」「入船」「辰巳亭」が挙げられていました。ここに挙げられているのは代表的な店ということなのか、店の入れ替えがあってのこの3軒なのか。どちらかということになるのだと思います。
「辰巳亭」と「辰巳」は同じ店を指していると思われますので、「吸海楼」「三成楼」「入船」「辰巳亭」などという店がいずれかの時代にあった。また、いずれの時代においても「吸海楼」「辰巳亭」はあったのではないかと思われます。

北針

ノンフィクション作家の大野芳の著書「北針」。これは大正二年に愛媛県からアメリカに改造漁船「天神丸」で密航した人々のノンフィクション作品です。その作中、寄港地として子浦のことが記述されています。

西子浦には、女郎屋が七、八軒あった。一軒あたり五名から七名ほどの酌婦がいて、酒が一本ニ十銭から二十五銭であった。とりわけ、中心部の喜笑亭と辰巳亭は、さびれたとはいえ、近在の漁師や旅の行商人を多数集めて賑わっていた。七十銭はずむと、酌婦は一晩男を泊める。帆船の時代は、さらに多くの酌婦がいたという。

大野芳 著『北針』,潮出版社,1982.8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12548360

大正初期には西子浦には7~8軒の女郎屋があり、その代表は「喜笑亭」と「辰巳亭」であるという。

新評 1978-09

北針の事前取材の内容については、「新評」という雑誌に「天神丸航海記」として連載をしています。
こちらのほうがさらに詳細に書いてあります。

八幡浜物語⑥
天神丸航海記
大野芳

往年の繁栄を山本源助さん(八二歳)は、こう語る。
「明治末ごろは、百トン未満の帆船が港いっぱいになるほどで、港からかなり離れた白崎のあたりまで、あふれて停泊していたものです、日和待ちの船乗り相手の飲食店(女郎屋)も、西子浦だけで、七、八軒ありまして、酌婦も、五人から七、八人かかえていましたな。喜笑亭とか辰巳亭などが一番大きかったが、やっぱり七、八人の女がおりましたな。一晩七十銭で、酌婦のところに泊まれました。地元の若い者も、よく女を買いに行ってたものですよ。酒一本、ニ十銭から二十五銭もしましたかな。日和待ちの船の者は、村には百人、二百人と、入れ替り出入りしてましたよ」
子浦の郷土史家・石垣乃武夫さん(七二歳)も、こう語る。
「私の家も、『瀬戸屋』という船宿をしていまして、四国の徳島の船がしょっちゅう来ていました。もう日本全国の船が、必ず立ち寄る港でして、東京―大阪間の要所になっていました。帆船時代から汽帆船時代に入った大正時代の初めごろから、だんだんとさびれていったようです」

『新評』25(9),新評社,1978-09. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1808102

ちゃんと取材をもとに記載されているのが確認できます。

ここでは子浦ではなく西子浦と地名が表示されているのですが。この西子浦とはどこでしょうか。これは静岡県南伊豆町西子浦 [223040550] | 国勢調査町丁・字等別境界データセットで確認できます。子浦はちょうど真ん中付近に山があって分断されているイメージではあるのですが、その西側全部。港付近はすべて該当という状況です。

地図・空中写真閲覧サービス

写真も出てきましたし、古い航空写真からおおむねの場所特定ができないか確認してみます。
確認に使用する情報は地図・空中写真閲覧サービスです。

整理番号 MCB693X
コース番号 C7
写真番号 2
撮影年月日 1969/05/04(昭44)
撮影地域 神子元島
撮影高度(m) 3600
撮影縮尺(アナログ)
数値写真レベル(デジタル)
20000
地上画素寸法(cm)
カメラ名称 RC8
焦点距離(mm) 152.220
カラー種別 モノクロ
写真種別 アナログ
撮影計画機関 国土地理院
市区町村名 賀茂郡南伊豆町
備考
ワンストップサービスの可否

当該エリアのもので古いものと検索すると、この写真が見つかります。この写真から子浦の部分を拡大したのがこれです。
ここの中で、子浦の部分をズームアップするとこのような感じ。

1969/05/04の時点では海岸線広がる穏やかな街の様相です。

これに該当する現在の航空写真を当ててみるとこのエリアになるはずです。

子浦漁港付近の地形が結構変わっていますね。
防潮堤から港に入った場所。現代では若干の駐車スペースと桟橋、スロープとして海岸が埋め立てられています。
またその先については子浦漁協の施設がある附近も当時の航空写真では確認できません。現在、公衆トイレのある場所付近以南は新たに作られたエリアということになります。

当時は港の真ん中付近、直角に曲がっている付近が港の中心で、そこから船が出ていたということが読み取れます。

当該部分をもう少し拡大してみます。
当時の写真でいうと、すでに閉業となっていますが、「波勝路」という旅館の南側。この崖の下は海だったということです。

『伊豆』の記述だと「渡船に乗った時にがげ上に見えた」という書き方になっていますので、当時の船着き場から見える崖上。
そうです。この「波勝路」の並びのあたりが可能性が高い場所となります。

Google ストリートビュー

ではこの場所を確認してみましょう。

・・・ん?
一瞬で答え合わせが終わってしまいました。
波勝路の隣の建物。壁に大きく「吸海楼」と書いてあります。
写真の女郎屋はここで間違いないようです。

ほかの場所は?

今回調査した資料で具体的に上がった女郎屋の名前としては

「吸海楼」「三成楼」「入船」「辰巳亭」「喜笑亭」

です。「吸海楼」は特定できましたが、ほかにも4軒の名前が挙がっています。また聞き書には7~8軒あったと書いてありますので、全体像を見るにはもう少し調査が必要そうです。ただ、これに関しては子浦の住宅地図は発行されて歴史が薄いようでもあり、なかなか追い込むのは難しそうではあります。
(国会図書館の目録を見ても、あまり遡れないようです。それ以前は発行されていなかったのでしょう。)

ゼンリンの住宅地図 下田市 賀茂郡・南伊豆町・東伊豆町・河津町 ’71

国会図書館で最も古いものはこれのようです。
これの子浦の部分を確認してみます。

ゼンリンの住宅地図 下田市 賀茂郡・南伊豆町・東伊豆町・河津町 ’71

笑っちゃいけないですね。
崖の上の建物。過去の航空写真を見る限りでも建ってはいたはずなのに、住宅地図では全く忘れられています。
漁協の魚河岸は記載されていることから、港のエリアもちゃんと調査はされたはずなのに、それでも記載されていない。
廃屋ですら記載するゼンリンにしては腑に落ちない記載方法です。いずれにしろゼンリンの住宅地図では過去には遡れなさそうであるという事はわかりました。

これより深く調査する場合は、もう少し別な手を考えないといけないですね。

使用した資料

静岡県民俗芸能研究会著, 静岡県・海の民俗誌 : 黒潮文化論, 静岡新聞社, 1988.11
安斎秀夫 著, 『伊豆』, 保育社, 1962
大野芳 著『北針』,潮出版社,1982.8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12548360
『新評』25(9),新評社,1978-09. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1808102
ゼンリンの住宅地図 下田市 賀茂郡・南伊豆町・東伊豆町・河津町 ’71,株式会社 東海善隣出版社, 国立国会図書館 蔵

コメント

タイトルとURLをコピーしました