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【埼玉県】鳩ヶ谷町(乙種料理店)を同定してみる

鳩ケ谷市の赤線

遊廓調査の時のバイブル、「全国遊廓案内」には記載がないけれども、『廓清』21(2)、1931年02月の35ページにある「埼玉縣風紀統計」には「鳩ヶ谷」。公娼と私娼にある「私娼窟所在地別調 昭和五年六月末現在」には「北足立郡 鳩ケ谷町」。「明日の婦人保護をめざして(売春防止法30周年記念誌)」にある「赤線業者地区別転向状況(昭和33年3月31日現在)」には鳩ヶ谷市と記載されています。

この記載から、鳩ケ谷には赤線、乙種料理店があったと考えられます。

鳩ケ谷市に赤線があった時期

赤線が発生した時期はよくわからないけれども、昭和6年(1931年)までには発生していることが読み取れます。

また、「明日の婦人保護をめざして(売春防止法30周年記念誌)」の方を見ると、昭和32年のリストにはリストになく、昭和33年(1958年)の転業状況には記載があること。昭和32年(1957年)までには転廃業が済んでいるようです。
統計などをもう少しまとめていけばこの辺りは突き詰めることもできるかもしれません。

写真で見る鳩ヶ谷の歴史

資料を探していて見つけた一冊。
「写真で見る鳩ヶ谷の歴史」
説明文を見るに鳩ケ谷の歴的背景が見えてきます。

江戸時代鳩ヶ谷が御成道の宿場町であったから、宿場につきものの飯盛女、宿場女郎が多かったのは言うまでもない。
明治になってからも、町内にあいまい宿、だるまやと称する店がかなりの数にのぼる。
…(省略)…
同じく芸者の方も多かったらしい。鳩ヶ谷には25~30名ぐらいいた。当時の日は、川口には4~5人しかいないのに、鳩ヶ谷には30もいるといって自慢していたという。

写真で見る鳩ヶ谷の歴史, 白石敏博, 1975, 川口市立鳩ケ谷図書館蔵 より

ということで、街道筋に発展した飯盛旅籠をルーツとして、脂粉の街として栄えていたのが、維新によってあいまい宿(あいまい屋)やだるまや(達磨屋)となって継続したということの様です。

「川口より栄えている」と、当時の人が言ったのは、やはり鉄道で栄えた川口市との感情的な対立ってのを感じずにはいられないですね。

具体的な場所は?

鳩ヶ谷史談という本を見ると、

次が「新地料理店」。本町三丁目の竹屋と野本時計店の横通り「出戸」を入り、左手のクリーニング店のところを右折して少し行ったところに、鳩ヶ谷の新地はあった。

寶来家  壽亭(電一一三)  千代本
古松屋  新千代本

鳩ヶ谷史談, 平野清, 2005.7, 川口市立鳩ケ谷図書館蔵 より

とあり、鳩ヶ谷には新地があり、そこには5件の乙種料理店が並んでいたということになります。

さらに続き、

太平洋戦争の始まる少し前まで、浦寺(桜町)の三光稲荷の初午などには、着飾ったきれいどころが大勢参詣したという。それも、戦争でその灯も消え、戦後に復活したものの、「新法律」の施行で<お姐さん>たちは姿を消した。

とあるので、昭和16年(1941年)に差し掛かるまでは栄え、戦争とともに消えていった状況であることが読み取れます。

で、肝心の新地。記述にある「本町三丁目の竹屋と野本時計店の横通り「出戸」を入り、左手のクリーニング店のところを右折して少し行ったところ」ですが、現在の地図で見ると、本町三丁目の竹屋は竹屋商店として現役で茶葉販売店として営業中。ただ、野本時計店は確認できず。Googleストリートビューで過去に遡ってみるも、

そこにあるかどうかの確認はできず。

ただ記述を素直に読めば、現在の十一屋北西商店の正面にある路地が「出戸」であると推測できます。

ただ、その道をたどっても、どこにもクリーニング店は見当たらないのです。
多分、早い段階で廃業してしまっているものと思われますね。

ゼンリンの住宅地図川口市(郊外編)鳩ヶ谷市 1977

図書館に行ったときに確認した古い鳩ヶ谷の地図。

ゼンリンの住宅地図川口市(郊外編)鳩ヶ谷市, 1977, ゼンリン, 川口市立鳩ケ谷図書館蔵

これを見ると、いろいろつながります。
予想通り、竹屋と野本時計店の横通り「出戸」は十一屋北西商店さんの真向いの路地。
その坂道を上ると、左に少し曲がった先の路地。角に「光洗舎」という名前。名称からクリーニング店であると考えられます。
その前後周囲には数件の理容院と美容院。この手のエリアに不可欠な要素も集中しています。

クリーニング店の十字路を右に曲がる。
地図上は道になっていますが、現代の地図を見るとわかりますが、かなり細い路地です。

元ネタの本には「右折して少し行ったところ」とありますが、この道を進むと1ブロック分進むと、裏の通りに出て行きどまり。
多分、「少し行ったところ」の範囲は、自然に考えれば「クリーニング店の十字路から裏の通りとぶつかる1ブロックの間」にあると考えられます。

そう考えると、これが指定地のメインストリートとなるのではないかと思われます。確かに、この路地のあたりだけ、他の区画に比べて妙に1区画当たりの面積が大きいのも、その辺の影響なのかもしれません。

この予想をもとに考えると、埼玉県川口市鳩ヶ谷本町3丁目7、11付近が該当エリアとなると考えられます。
もしかすると、行きどまりの部分、12も該当かもしれませんが、おおよそにはこのあたりと同定できると考えます。

もう少し古い住宅地図や鳥観図でもあればもうちょっと追求できるんでしょうけれども、今の段階では、ここまでですね。

参考資料

内務省警保局 編『公娼と私娼』,内務省警保局,1931.2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1454977 (参照 2024-03-03)
『廓清』21(2),廓清会本部,1931-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1470019 (参照 2024-03-31)
埼玉県婦人相談センター 編『明日の婦人保護をめざして』,埼玉県婦人相談センター,1987 埼玉県立図書館
写真で見る鳩ヶ谷の歴史, 白石敏博, 1975, 川口市立鳩ケ谷図書館
鳩ヶ谷史談, 平野清, 2005.7, 川口市立鳩ケ谷図書館
ゼンリンの住宅地図川口市(郊外編)鳩ヶ谷市, 1977, ゼンリン, 川口市立鳩ケ谷図書館

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