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【埼玉県】有楽町(所沢市)の乙種料理店街(遊廓)を同定してみる

埼玉県風紀統計などによると、所沢にも遊里があったことが示されています。
売春防止法直前の段階でも業者は6、従業婦は17と記載されています。
飛行場があり戦後は駐留軍が来たことを考えれば、遊里はあってもおかしくはない条件が整っています。

実際に遊里があったとして、どこに遊里があったのか。
ちょっと気になるので調査してみます。

飛行機、浦町、ディープなマチ

所沢市立図書館で遊里に関する資料がないか聞いてみたところ出てきた資料がこれです。
『所沢市生涯学習推進センターふるさと研究グループ夏季企画展「飛行機、浦町、ディープなマチ」(会期 平成28(2016)年8月20日(土)から10月9日(日))の展示図録』との事。
まさに直球な内容がびっしりと記載されていました。

テーマ2
浦町・有楽町・粋なマチ

(省略)
その浦町に遊郭が設置されたのは大正初期のことでした。背景には、所沢飛行場の開設があります。
ここでは、遊郭の誕生から敗戦をへて売春防止法が施行されるまでの浦町(有楽町)の歴史や粋なたたずまいをみせる娼楼、およびそこに残されていた絵皿ならどの資料を紹介します。

所沢市生涯学習推進センターふるさと研究グループ 編『飛行機、浦町、ディープなマチ』, 2016.8, 所沢市立図書館 蔵

遊廓は有楽町(浦町)であったという事です。
その続きには具体的な記述がありました。

遊郭設置の嘆願書と候補地

(省略)
マチの有力者たちは協議し、その結果、遊郭の設置を決め、埼玉県知事宛に「遊郭設置出願関係書類」を提出しました。その候補地に選ばれたのが「大字所沢字八つ塚」です。ここは、現在の国立リハビリテーションセンター辺りになります。しかし、大正7(1918)年から12(1923)年の間に飛行場拡張が行われ、八つ塚は飛行場用地となってしまいました。
新たな候補地として浮上したのが浦町でした。ここは、記録にこそありませんが、古老の証言によれば明治末期にはすでに私娼の茶屋が置かれ、織物製造の機屋や買継商の縞屋でにぎわったそうです。こうした背景があったからこそ、浦町が遊郭の指定地となったのでしょう。
以後、昭和32(1957)年の売春防止法施行に至るまで、浦町は歓楽街として歩むことになるのです。

所沢市生涯学習推進センターふるさと研究グループ 編『飛行機、浦町、ディープなマチ』, 2016.8, 所沢市立図書館 蔵

当初の予定地は飛行場用地となり、代替地として有楽町が選ばれたとのことです。
有楽町は「ゆうらくちょう」の響きから東京の有楽町などから持ってきた名前だとばかり思っていたのですが、ここでの呼び名はもともと浦町(うらまち)であったことから当て字として成立していたんですね。
有(う)楽(ら)町(まち)。よく考えるものですね。これは面白い。

この有楽町は現在の地図で見るとこのような感じです。

川沿いに展開されるエリアで大通りの一本裏手。まぁ、それ故に「うらまち」なのでしょう。

中央に大きな位置を占めているのは「薬王寺」。その脇には「ヤオコー 所沢有楽町店」が大きな面積を占めています。
ヤオコーに関しては、この部分は「旧醤油醸造蔵」があった場所のようです。これは跡地に「深井醤油資料館」等の残渣を残しています。
特に、この点は資料は手元にないのですが、現地に行ったときにそのような説明書きがあったので間違いないはずです。
この部分は本論にあまり関係ないので、これ以上は突き詰めずに行きます。

さて、話は戻って『飛行機、浦町、ディープなマチ』の中身です。
こちらには「遊廓エリアの地図」も添付されています。
こちらを確認するとこのような感じです。

所沢市生涯学習推進センターふるさと研究グループ 編『飛行機、浦町、ディープなマチ』, 2016.8, 所沢市立図書館 蔵

これを現代の地図と重ね合わせて確認すると、地図上左上にある「鍛冶屋」とある部分は薬王寺の入り口。中心に位置する橋は「三浦橋」。銭湯とあるのは「八川商店」の南側の空き地となっている場所が該当です。

三浦橋付近を中心に、薬王寺から八川商店の間までが該当エリアであると読み解けます。

廓状になってはいないものの、一定のエリアに固まっていたという状況の様です。

日刊 新民報 1957年3月28日(木)1面

この有楽町の遊廓(乙種料理店・指定地)はいつごろまであったのか。
これについては、所沢の図書館で確認した資料、「日刊 新民報」に少々ですが記載がありました。
この「日刊 新民報」。地域で発行されていた新聞のようです。
記載されていた内容は次のような内容です。

所沢の”赤線地帯”姿消す
従業婦は結婚したり、女中さんに

昨年五月に成立した売春禁止法は、いよいよきたる四月より実施期間に入るが、四月から来年三月一ぱいまでの一年間を、業者の転業期間とし、来年四月より完全実施となる。
所沢の指定地(有楽町乙種料亭組合、組合長木村米吉さん)でも、目下転業準備が着々すすめられ、きょう(二十八日)午後一時より同地″春の家″において同業組合総会を開き今后の方針などについて協議する予定。
この所沢有楽町は現存七軒の業者とそこで働く十九人の売春婦がいるが、業者は一軒が廃業、一軒が下宿屋となり、残り五軒が甲種(芸を売る)料理店に転業する方針であるといわれる。
一方売春婦は十九人のうち三人がすでに結婚し、あと三人は結婚を希望、残りの人たちは他に行く道がないため女中として、そのまま料亭に働くことになる模様である。
(省略)

日刊 新民報, 1957年3月28日(木)1面, 日刊新民報社, 所沢市立図書館 蔵

売春防止法は、施行は1957年4月1日、罰則の施行が1958年4月1日ですので、最後の1年を迎える直前の記事という事になります。
売防法成立時点ではまだ乙種料理店として営業しており、成立、施行までの間に転業を急ぐ様が記載されています。
所沢においては、多くが甲種料理店へ転換し、一部が下宿屋へ転業、廃業をしたという事のようです。

本地も、他と一緒でギリギリの時期まで赤線として生き残っていたようです。

ゼンリンの住宅地図 所沢市 ’75

さて、ここまで来たら。
住宅地図を使って裏どりしてみたいと思います。
なかなかちょうどいい年代の地図を入手できなかったのですが、たまたま手元にあった1975年の地図で重ね合わせしたいと思います。

ゼンリンの住宅地図 所沢市 ’75

※ 一応、個人名と思われる場所はマスクしたつもりです。

三浦橋から延びる道周辺は面影を残しているように見えます。通りには旅館、料亭の記載を確認できます。
一方で「見返り橋」はこの年代にはすでになく、そこにアプローチするための道がかすかに残ります。
この見返り橋の通りで気になるのは「春の家」。住宅地図には記載がありますが、「飛行機、浦町、ディープなマチ」では魚屋と記載されています。
少なくとも、「春の家」は新聞記事で寄合を行っていた場所とされていますから、これは記載ミスか、こちらに移転したのかのいずれかなのだとは思います。

おおむね、この場所で一致しているということでいいでしょう。

デジタル現地散策

もうこれだけ時代が移り変わっているうえに、所沢という地の利もあるので、土地の再利用は進んでいるだろうと思いながらのデジタル散策です。

最初にメインストリート(三浦橋)から。

もうメインストリートの3軒は跡かたないですねぇ。

裏通り側。こちらも建て替えが進んでしまっていて、残渣を発見することはできません。
ただ、

お女郎稲荷付近。こちらにはストリートマップ上では当時を思わせる建物が残っていました。
いかにもといったガラスが目立ちます。

全体を見渡してみて、当時の空気感を残すのはここだけ。
とりあえず、現地踏査するのであれば、この建物だけですかね…確認するのは。

使用した資料

所沢市生涯学習推進センターふるさと研究グループ 編『飛行機、浦町、ディープなマチ』, 2016.8, 所沢市立図書館 蔵
日刊 新民報, 1957年3月28日(木)1面, 日刊新民報社, 所沢市立図書館 蔵
ゼンリンの住宅地図 所沢市 ’75

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