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【東京都】赤羽二業地(北区赤羽)を同定してみる

「どうやら赤羽にも遊里があったらしい」

そういう情報を得たけれども、いつものバイブル「全国遊廓案内」には赤羽の記述は見当たりません。また、東京の遊里に詳しい「三都花街めぐり」にも記述は見当たらず。
こりゃ本格的に調べないとわからんなぁ。ということで調査開始です。

岩淵町郷土誌

もともとこの地域の中心は岩淵町で、赤羽はどちらかというと岩淵に付随するような立ち位置だったようです。
そのため古いものを探るには「岩淵町」からという事で地誌を調査します。

まず手始めに確認するのは「岩淵町郷土誌」。
こちらを眺めていると次のような記述を発見。

赤羽二業組合
赤羽二業指定地は赤羽二千百四十九番地元小口組工場の敷地の一部に、大正十五年
九月十日に設立された。藝妓屋十二戸藝妓二十二名半玉六名。組合員は三十五戸ある。
この内最も古い家は新勝で明治四十一年二月の開業である。

平野実, 桜井泰仁 編『岩淵町郷土誌』,頂星堂書店,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション

出版時点では、赤羽は二業地であったようです。

指定地は赤羽の元小口組工場。
この小口組というのは「製糸業」であり、神奈川大学 学術機関リポジトリにある巨大製糸小口組の発展と展開(商経論叢第50巻第2号(2015.3), 松村 敏)等に詳しくその実態が記載されています。
今回でいう赤羽の部分についても成り立ちなどは記載されていますが、今回の同定で重要になるのはP.397 脚注86にある「関東大震災により赤羽支店が高崎(群馬県)に移転」と記載されている部分です。
もともと岩淵町赤羽にあった小口組赤羽支店は関東大震災により壊滅的な被害を受け、それを期に高崎へ転出していったことになっています。関東大震災は1923年9月1日。大正12年ですので、前述の郷土史の記述「大正十五年九月十日に設立」につながっているものと推測されます。

北豊島郡総覧 昭和5年度版

岩淵町郷土誌に記載されている情報。こちらについては北豊島郡総覧にも類似した記述がなされていました。

北豊島郡総覧 昭和5年度版

▼赤羽二業組合 の指定地は赤羽二一四に大正十五年九月に設立し
藝妓屋十二戸、藝妓二十二名、半玉六名、組合員三十五戸。

大正毎日新聞社 編『北豊島郡総覧』昭和5年度版,北豊島総覧社,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション

「岩淵町郷土誌」の記述は信ぴょう性があるという事になろうかと思います。

亀ケ池

「岩淵町郷土誌」には、「亀ケ池」という場所の記述があります。

〔龜ケ池阯〕
稻付城阯の西被服廠との間の谷に、稻付城の在った頃から龜ヶ池と云ふ池があり城の西方の天然の防禦物となってゐたことが古圖などで知られる。
(省略)
明治の初年、土地整理の際は溜井一町六畝二十九歩と書上られ上地して官林となり、後拂下げて町有となり、更に轉々して小口組の所有となり、湧水が良好なのと横浜積出が便利なので大正元年十一月、稻付城阯の一角諏訪臺を崩して埋立て此處に製絲工場が設けられるに及んで、龜ヶ池は全くその跡を消してしまったが、其の後彼十二年の大震災で工場が倒壊して後は再築されず、大正十五年赤羽二業組介が其の跡に設けられるに至った。

平野実, 桜井泰仁 編『岩淵町郷土誌』,頂星堂書店,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション

ちょっと堅苦しい昔な記述なので、これを少々、現代語として意訳すると…。

”明治初年の土地整理では「溜井一町六畝二十九歩」と記載され、官林となったのち払い下げられて町有地となり、さらに転々として小口組の所有になった。湧水が良く横浜への出荷に便利だったため、大正元年十一月に稲付城跡の一角、諏訪台を崩して埋め立て、そこに製糸工場が設けられると龜ケ池は完全に消失した。その後、大正十二年の大震災で工場が倒壊して再建されず、大正十五年に赤羽二業組合がその跡地に入った。”

とあるので、赤羽の花街は「亀ケ池」の付近にあったという事になります。

この亀ケ池については、亀ヶ池弁天 | 東京都北区観光ホームページに「亀ヶ池弁天」として解説があります。

昔、赤羽駅の西口一帯にあった大きな池があり、亀ヶ池と呼ばれていました。
(省略)
現在の亀ヶ池弁財天の池はその亀ヶ池の名残りといわれていて、中の島に祀られている祠は かつて亀ヶ池の一角にあった物で、中には弁天像が納められています。
(省略)
所在地 赤羽西1-29

亀ヶ池弁天 | 東京都北区観光ホームページ, https://kanko.city.kita.lg.jp/spot/304-2/, 確認日:2025/11/1

亀ケ池は完全に消失したという事になっていますが、現在は「亀ヶ池弁財天」として現存していることが記載されています。

赤羽駅の西側。赤羽台団地の崖の下側のあたりが指定地であったという事のようです。

「岩淵町郷土誌」にも、

平野実, 桜井泰仁 編『岩淵町郷土誌』,頂星堂書店,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション

当時の写真が掲載されています。
ただ、この写真奥に見える台地状の場所は赤羽台なのか。はたまた赤羽駅方面にある静勝寺(稻付城址)なのか、その点はこの写真には付記されていません。
たぶんですが、赤羽台側から指定地を見下ろし、その先に静勝寺が映っているのではないかと推測します。

この場所に指定地。赤羽の現役の風俗街は駅東口側でもあり、どちらかというと西口側はそこまで猥雑な感じも無かったので以外です。

赤羽二業指定地 赤羽二千百四十九番地 はどこか

指定地として出ている「赤羽2149」とはどこだろうか。亀ヶ池弁天の付近であろうことは想像がついたので「北区赤羽西1丁目付近(亀ヶ池弁天のある赤羽西1丁目29付近)」であることは想像ができます。ただ、もう少し深堀。
「赤羽2149」これは時代から岩淵町赤羽2149の表記であると思われます。ここから現代に向けて住所表記が時代によって変わっているはずなので、その点を追いかけていけばよいということになります。
住所表記変更については、おおむね現状の自治体に読み替えの情報が提供されています。これは、過去の資料を読む際に必要となる際だからでしょう。北区でこの情報が提供されていて、具体的には住居表示旧新対照表(50音順)|東京都北区に記載されています。

ここを参照すると、実際には赤羽2149ではなく、赤羽町4丁目2149だったようです。該当部分だけを抜き出すと次のようになります。

旧番地 新住居表示
町名 街区符号 住居番号
2149 赤羽西1丁目 29 1
2149 赤羽西1丁目 29 2
2149 赤羽西1丁目 29 3
2149 赤羽西1丁目 29 4
2149 赤羽西1丁目 29 5
2149 赤羽西1丁目 29 10
2149 赤羽西1丁目 29 16
2149 赤羽西1丁目 29 17
2149 赤羽西1丁目 30 1
2149 赤羽西1丁目 30 2
2149 赤羽西1丁目 30 3
2149 赤羽西1丁目 30 4
2149 赤羽西1丁目 30 5
2149 赤羽西1丁目 30 6
2149 赤羽西1丁目 30 9
2149 赤羽西1丁目 30 10
2149 赤羽西1丁目 30 11
2149 赤羽西1丁目 30 11
2149 赤羽西1丁目 30 12
2149 赤羽西1丁目 30 13
2149 赤羽西1丁目 30 15
2149 赤羽西1丁目 30 16
2149 赤羽西1丁目 31 2
2149 赤羽西1丁目 31 3
2149 赤羽西1丁目 31 4
2149 赤羽西1丁目 31 6
2149 赤羽西1丁目 31 9
2149 赤羽西1丁目 31 12
2149 赤羽西1丁目 31 14
2149 赤羽西1丁目 31 15
2149 赤羽西1丁目 33 5
2149 赤羽西1丁目 34 1
2149 赤羽西1丁目 34 2
2149 赤羽西1丁目 34 6
2149 赤羽西1丁目 34 7

ここの内容をざっくりとまとめると、赤羽西1丁目29~34一帯が該当となります。
地図上で大雑把に認識するとすると、赤羽台の崖、弁天通り、赤羽並木通りに囲まれた地域です。

ここが「赤羽二業地の指定地」あると考えてよさそうです。

特殊慰安所

調査中に思い出したのが特殊慰安施設協会 (Recreation and Amusement Association)の存在。
Wikipediaにも「赤羽の赤羽会館(赤羽キャバレー)などがRAA関連施設として開設された。」とある位で、赤羽にも進駐軍向けの施設が用意されていることが言及されています。

これについては、過去に読んだ資料に赤羽の文字があったなと思って資料をひっくり返してみたら…見つけました。
進駐軍向け特殊慰安所RAAという資料に、各地に設置されたRAAの施設が掲載されています。

銀座・丸の内 オアシス・オブ・ギンザ/銀座パレス/千疋屋/伊東屋/緑々館/工業クラブ/ボルドー/銀座耕一路/日勝館
品川 京浜デパート(パラマウント)
小石川 白山キャバレー
芝浦 東港園
向島 大倉別邸
板橋 成増慰安所
赤羽 小僧閣(赤羽会館)
大井・大森 小町園/見晴/やなぎ/波満川/悟空林/乙女/楽々/花月/仙楽/松浅/沢田屋/福久良
三多摩地区 調布園/福生/ニューキャッスル/楽々ハウス/立川パラダイス/立川小町

この中に赤羽に「小僧閣(赤羽会館)」というものが設置されていたと記載されています。
特に場所の言及はありませんが、RAAは既存の遊里を流用している場合が多いので、ここにある小僧閣というのは二業指定地内であるというのは想像に難くないです。この点をさらに深堀してみます。

北区史 資料編 現代1

北区の図書館に行ったときに、「北区史 資料編 現代1」を確認。
ここには次のような記載がありました。

136 王子区、進駐軍接待に関する件
一九四五年(昭和二十)九月
〔北区行政文書〕

号外
昭和二十年九月二十七日
東京都長官々房人事課外事係
各区総務課長毆
進駐軍接待二関スル件
聯合軍進駐二伴ヒ、貴管内二於テ区、町会其ノ他ニ依ル接待所ノ類
ヲ設置セルトキハ、左記事項当係迄御報告相煩度侯也

一、名  称
二、設置場所
三、設 置 者


月  日
総務課長名
人事課外事係長毆
進駐軍接待二関スル件
九月二十七日号外御照会標記ノ件、左記ノ通候也
尚本接待所ハキヤバレー式ニシテ、近々開業予定ノモノニ有之候

一、名  称  未定
二、設置場所  王子区赤羽町四丁目二、一四九 小僧閣 (元工員 定食)
三、設 置 者  日本施設協会

『北区史 資料編 現代1』,北区史編纂調査会,平成七年十二月十五日. 東京都北区立図書館蔵

これは北区に残る行政文書ということになりますが、これによれば、東京都より各区に対して進駐軍接待に供する施設を設置するときは報告するようにとの内容に対し、回答案として下記の内容を作成したという記録です。
まとめると、

  1. 名称は未定。
  2. 場所は「小僧閣」。住所は王子区赤羽町4丁目2149(指定地と同じ)
  3. キャバレー式の施設。
  4. 設置者は日本施設協会。

との記述です。
施設名はいろいろな資料により揺らぎがありますが、ここまでの資料をまとめると、「小僧閣」=「赤羽会館」=「赤羽キャバレー」という事で、同じ設備の名称なのだろうと思われます。小僧閣が元々の指定地時代の名称、RAAにより赤羽会館と改称したが、実際には営業スタイルから赤羽キャバレーと呼ばれたという流れに読み解けます。

家相方鑑大全

この小僧閣。ちょっと調べてみると面白いところから情報が出てきます。

それは「家相方鑑大全」要するに占いの本。
建物を建てるにあたって占った内容が列挙されている本。
ここに「実例第二十六 割烹業 住宅兼営業用客室」として赤羽に作られた小僧閣が掲載されています。

表向きは洋風建築、裏側が純和風。
それも吉祥を占った結果、建築がなされたということのようです。

東京横濱近縣職業別電話名簿 : 東京逓信局認可 甲篇(東京横浜ノ部) 第19版

もう一つの資料。
「東京横濱近縣職業別電話名簿 : 東京逓信局認可 甲篇(東京横浜ノ部) 第19版」が国会図書館の資料として確認できます。
これは「日本商工通信社」が1929年9月に出版した電話帳。1929年は昭和4年。
こちらには

赤羽 六 小僧閣 大野金吉 北豊島、岩淵、赤羽101

「東京横濱近縣職業別電話名簿 : 東京逓信局認可 甲篇(東京横浜ノ部) 第19版」,日本商工通信社,1929年9月, 国立国会図書館デジタルライブラリー

とあり、小僧閣のオーナーは大野氏であることが読み取れます。これを少し頭の片隅に置いて、さらに調査を進めます。

東京都全住宅案内地図帳 北区版

昭和43年度版(1968年)の住宅地図が確認できたので、この地図をすこし深堀してみます。

赤羽台の公団住宅。特徴的なスターハウスが並んでいて面白い。今も一部は保存されていますが、こんなに建っていたんですね。
その崖の下。この付近に該当のエリアがあったようです。
現在、赤羽台を抜けるトンネルになった道はまだ完成しておらず、トンネル付近には大山大社という神社が鎮座しています。それ以外は現在の赤羽の地形に近い形になっており、現代の地図にそのままマッピングできそうです。

ここに記載されている中で、残渣の可能性が高い旅館、料理屋、劇場の類をマーキングしています。
指定地と目している場所、ピンポイントに見るとそれらの施設は多くはないのですが、エリアとしてみた場合、結構、多いなという印象があります。
また、ピンポイントに見ているエリアについては、ここだけほかのエリアに比べて区割りが大きく建物も大きめ。これはその手の施設であったが転廃業で今の形になったと読むこともできそうです。この地図自身が売春防止法成立からかなり立っていますので、その程度の見方で判断するのが正しいように思います。

で、ここで見ていると気になるのが「大野屋旅館」「大野湯」(現在はライオンズタワー赤羽が立つ場所)。
電話帳において小僧閣のオーナーは大野氏であったこと、地図上から読み取るにこの地域では最も大きい店であったと考えられることから、「小僧閣はこの大野屋旅館であった。」と現時点では結論付けるのが合理的であると考えられます。

この地域に、岩淵町郷土誌の写真にあるような形で芸妓屋がおかれたということでしょう。
この地域は利便性もよく、すでに古い建物は一切残っていない状況でもあり、唯一の残渣は弁財天だけかもしれませんね。

結論

  1. 赤羽には大正15年より二業地がおかれていた。
  2. 指定地は旧小口組赤羽支店跡である赤羽2149(赤羽西1丁目29~34一帯)。
  3. 戦後はRAAにより進駐軍向け慰安施設 赤羽会館(小僧閣・赤羽キャバレー)が置かれた。
  4. 赤羽会館は後の大野旅館であると考えられる。

資料

平野実, 桜井泰仁 編『岩淵町郷土誌』,頂星堂書店,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1208569
大正毎日新聞社 編『北豊島郡総覧』昭和5年度版,北豊島総覧社,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1049150
飯田天涯 著『家相方鑑大全』,木村書房,昭和7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1213056 (参照 2024-10-31)
進駐軍向け特殊慰安所RAA, 村上勝彦.
東京都全住宅案内地図帳 北区版, 公共施設地図株式会社, 昭和43年11月1日

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